木霊の森(徳島県上勝町)
うわぁ。水分をたっぷり含んだ深い緑色の苔に覆われた森は、有名なアニメ映画の舞台を連想させるほど神秘的で、魅惑的で、思わず足を止めて感嘆を漏らす。
「妖精か木霊でもいそうだな」とファンタジーな空想がよぎったが、ハッと我に返り、慌てて歩を進める。この美しい場所にとどまって、しばし癒しの時間に浸りたい……という発想は、もう何年も前に捨て去った。立ち止まれば、私の体温や呼気を感知して、奴らが襲ってくるかもしれないのだ。
そう、今は虫の活動最盛期。
甘い物が大好きで、たぶん酸性に傾いている私の美味しい血を、蚊、ブヨ、アブ、マダニ、ヒル……美しい緑の中に潜伏する奴らが隙あらばと狙っているのが現実だ。
肌を露出しないように細心の注意を払っていても、布越しや虫よけネットの網目からいつのまにかチクリとくる。
特に「初刺され」は腫れ上がり、痒くてかく、かくから治らないを繰り返し、数年に及ぶ傷痕になることもある。
特に西日本で発生の多いSFTSウイルス媒介のリスクがあるマダニは、熊並みの危険生物だし、気が付くと服が血まみれになっているというヤマビルの襲撃もゾッとする。だが、緑深い森林や爽やかな高原の作品をモノにするためには、虫たちの洗礼を覚悟しなくてはならないのだ。
*
苔の森といえば、屋久島や信州でも撮影したことがあるが、いずれも有名観光地。入山料や駐車料金が必要な代わりに、情報も随時発信されているし、カメラマンだけでなく、登山者、観光客、カップル、親子連れなど多くの人たちが直近で訪問しているから、なんとなく安心感がある。
ここ、山犬嶽は、地元・上勝町の観光案内や、登山愛好家がサラッと書いたブログの情報のみで、特に虫に関しては、いるともいないとも記述がなく、虫ノイローゼの私は少々大袈裟かと思いつつ、蒸し暑いのを我慢して万全の装備で挑むことにした。
首元をガードするために、つば付きの帽子の上からフードを深くかぶり、長靴の口にはレッグカバーをきつく巻き、レインコートは首元まで密閉する。もちろん、上からの落下攻撃に備えて、傘を差すのも忘れない。
この移動サウナばりの身支度で熱が籠った状態では、かえって虫が寄ってくる気もするが、過去2回、マダニに寄生されたトラウマがある私は、このくらいしないと気が済まない。
敵にロックオンされないよう、三脚を据えてシャッターを押す瞬間以外は立ち止まらずウロウロと歩き回る。もちろん、どこかに腰を下ろすなどは言語道断だ。
虫は怖いが、水苔の森はどこもかしこも絵になる美しさで、ついつい長居をしてしまい、森を出る頃の私はもう、フラフラのヨロヨロだった。
里に下り、装備を解除する。
長靴を脱ぎ、ぐっしょり濡れたズボンを見て「血みどろになっていたらどうしよう」と、恐る恐る裾をめくったが、素肌はなんともなく、正真正銘の汗だった。首筋もベトベトしていたので「真っ赤になっていたらどうしよう」とこわごわ手で拭ってみたが、こちらも汗だった。
結論からいうと、山犬嶽で虫に悩まされることはなかったし、寄生も吸血もされなかったが、それが私の重装備仕様のたまものだったのか、もともと奴らが控えめな生息地だったのかは、分からない。
*
屋外で脱げるところまで脱いで、無事を確認したものの、まだ安心しきれなかった私は、近くの日帰り温泉へと急いだ。
脱衣所で奴らが付いているかもしれない服をビニール袋に密閉し、シャワーで全身を洗い流す。汗と一緒に、不安や疲れが剥がれ落ちてゆく爽快感は、禊をしているような感覚だ。湯上りに冷房の効いたスペースで一息つきながら、これで今夜は車内でもゆっくり安心して眠れると嬉しくなる。
美しい風景を求めて自然の中へお邪魔はするが、現代人の私は、やっぱり冷暖房完備の室内の方が心地いいなと、痛感する夏の夜だった。
登山口から案内板の「苔の名所」を目指し、杉林を抜けると苔の森が出現(約1キロメートル、20分ほど)。登山口に専用の駐車場はないため、ちょっとしんどいが手前約2キロメートルの駐車場から歩いてほしい。付近に樫原の棚田がある。帰りは月ケ谷温泉で日帰り入浴可能。
※本文に掲載されているサービスなどの名称は、各社の商標または登録商標です。
写真・エッセイ:星野佑佳
風景写真2023年9-10月号