「フォトジャーナリストの仕事は、年に何度か違う人生や職業を経験するようなもの。だからこの仕事が好きなのです。」
フォトジャーナリズム(スロベニア)
- *このページの文章と画像は「Nikon Pro(2010年春号)」に掲載されたものです。
アンデス山中の塩田で、約800ものペルー人家族たちが塩を採りながら細々と暮らしている。Hodalič は彼らの生活を取材し、ナショナルジオグラフイック・フランス語版に寄稿した。
「インターネットで探しても見つからないような素晴らしいストーリーがあるんですよ」。フォトジャーナリスト Hodalič は言う。彼は、写真を教えている生徒たちとフィールドワークでペルー国内を回っているとき、クスコから50 kmほど離れたアンデス山中で偶然その塩田に行き当たった。そのとき、これは面白いストーリーになるかもしれないと思ったが、季節が冬だったため塩田は静まり返っていた。そこで、作業が行われるシーズンに、マラスの人々が何世紀にもわたって続けてきた塩を採取する様子を記録するため、もう一度来ようと計画を立てた。Hodalič はその話をフランスのナショナルジオグラフィックに持ち込み、一人の記者とともに2週間の予定で取材に戻った。
塩田は標高3200メートルの山から湧き出る塩気のある水流によって作られたもので、そこではインカ王国時代以前から塩が作られてきた。海から遠く離れ、しかもこのような高地では、塩は大変貴重なものだった。塩田の数は過去25年間増え続け、今では約3600に達した。700から800の家族で所有しており、年間160~200トンの塩を産み出す。塩田は何代にもわたり家族の間で引き継がれるが、25~50ユーロという価格で売買されることもある。塩田の売買や塩の取引は協同組合が引き受け、塩田のオーナーには1袋につき1~2ユーロのマージンを支払ったり全体の利益を分配したりしている。
仕事は過酷で、実際に生きていくためには多くの家族が子供の手伝いを必要としている。塩田の手伝いや家畜の世話。子供たちは午後や週末に働く。このため、10歳までに小学校を卒業できる子供がほんの数人しかいないのも当然のことだ。多くは12歳から15歳くらいまで、中にはカリキュラムを終えるのに17歳までかかる子供たちもいる。
マラスの人々の生活と、そこを訪れる観光客の様子は著しく対照的だ。観光客は塩田を分けている(通常、滑りやすい)道に立ち入ることはできない。立ち入ろうとすると金銭を要求されることがしばしばあり、それは Hodalič が絶対に避けたいことだった。Hodalič と記者は通訳を雇い、塩田で働く人々と打ち解けるために、彼らにとってどのようなものが必要で、いったい何をあげれば喜ばれるのかを、そっと教えてもらった。そのほとんどは、新鮮な食べ物だったり飲料水だったりした。
「彼らに我々の食料を分けてあげると、お返しに彼らの食料を分けてくれる。一緒に食べることで友好な関係が生まれる。本当に素晴らしいことです」。Hodalič が訪問したときが、年に一度の地域最大の祭典「聖母被昇天」のタイミングだったのは幸運だった。5日間にわたり、食べて、料理して、歌って、飲んで、踊るのを、すべて見ることができた。結果として、Hodalič は彼らの働く姿も、楽しむ姿も、つまりマラスの人々独特の世界観を撮影できた。「私は古いタイプのフォトジャーナリストです。そこにあるストーリーにより深く入り込む。時間をかけて取材する対象を徹底的に理解しようとする。フォトジャーナリストの仕事は、年に何度か違う人生や職業を経験するようなもの。だからこの仕事が好きなのです。こんなに素晴らしい自由があるんです。たとえ何があってもこの仕事を辞めることはないでしょう」。
Hodalič は、これまで20年間にわたってフォトジャーナリストとして活動し、スーダン、ロシア、中国、その他多くの地域を取材してきた。2007年には、ナショナルジオグラフィック・アメリカ版でストーリーが取り上げられたことで、彼はフォトジャーナリストとしてのキャリアにおいて頂点に達した。それは、スロベニアのリュブリャニカ川における考古学的発掘で、これまでで最も肥沃な淡水が見つかった、というものだ。彼は、2005年にペルピニャンで行われた「Festival Visa Pour L'Image」の際にナショナルジオグラフィックの編集者とコンタクトをとり、それ以来2年に及んだプロジェクトを完遂させたのだ。
現在、Hodaličはナショナルジオグラフィック・スロベニアの写真編集者であり、リュブリャナ大学で写真を教え、またリュブリャナのVISTでは助教授として教鞭をとっている。
写真を見ればわかるように、Hodalič は常に被写体となる人々のことを気にかけ、また彼が手がけるプロジェクトの多くは社会と深く結びついている。たとえば、彼はコンゴ民主共和国から帰ったばかりだが、そこでは、国連による地雷撤去活動をレポートしている。旅をするときは実費以外すべて自腹ということも多く、また、ガザ地区やアフガニスタンでの取材をはじめ、刑務所やバルカン半島での紛争も広範にレポートした。さらには、さまざまな募金活動にも携わり、最近ではカレンダーを発行することで3万ユーロを集め、パラリンピックに子供たちを送り出した。
また、今回の取材で、マラスの人々の助けになることを達成できた。Hodaličはスロベニアの上場企業に、カレンダーを制作する代わりに彼の旅費をスポンサードしてもらえるように説得した。そうして集めた2000ドルで、学校が2台のコピー機を購入し、教科書がコピーできるようになった。それはその地域の家庭では到底実現できることではない。
「私は世界を変えたい、などとは言えません。何かを変えるということは自分一人ではとてつもなく難しいことだからです。ただ、こういったプロジェクトに実際に関わることで、毎朝自分自身を鏡で見つめたときに、少なくとも変えようとする努力はした、と納得できる。だからお金にならない仕事も多く引き受ける。実際に本当に多いんです。車だって、まだ20年前の古いものに乗っていますよ」。
写真の撮り方を変えたD3
「このカメラの登場は驚異的でした。まったく新しい、"撮影マシーン"と呼びたくなるほどの存在であり、飛躍的な進化を遂げていました。夜のフェスティバルや室内ショットでD3(あるいはD700)を使いましたが、とても満足のいく結果が得られました。ISO 3200が必要なほどの暗さで撮影ができたのは信じられない経験でした。D3に出会う前なら、そんなに高い感度で撮るのは時間の無駄でしたからね。それが今や、素晴らしい仕上がり。低光量下での撮影を可能にしたD3は、写真を変えたと言ってもいいでしょう。特に私の場合、80~90パーセントは難しい光の中で撮ることが多いですから。私の写真の撮り方を確実に変えてしまいましたね」。
「とは言え、いまでもスピードライトはよく使います。主に日中の撮影で。あの現場ではうまく撮れてよかった。高所だったため空気が薄く、色彩的には都合が良かったのですが、光が強すぎたのです。そこで、コントラストを抑えるためにシャドー部を起こすのにスピードライトを使いました。自然な太陽光の色に近づけるため、一緒にライトイエローのフィルターを付けることもよくあります。撮影地でより手のこんだライティングが必要なときは、SB-900をメインに、 SB-800を2灯、リモートユニットとして使っています。今回の撮影では、SB-900をケーブルでつなぎました。カメラのホットシューに接続することはまずありませんね。それが私のいつものやり方です」。
カメラバッグの中身
D3、D3X、AF-S NIKKOR 14-24mm f/2.8G ED、AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G ED、AF-S NIKKOR 70-200mm f/2.8G ED VR Ⅱ、AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED、AF Fisheye-Nikkor 16mm f/2.8D、SB-900、SB-800、スピードライト用フィルター、Gitzo GT2540LLVL tripod with Arca head、バッテリー(4本)、40GB メモリーカード(数枚)、ラップトップコンピューター