コンパクトなDX標準マイクロレンズ
AF-S DX Micro NIKKOR 40mm f/2.8G
今夜は、2011年に発売されたDXのマイクロレンズAF-S DX Micro NIKKOR 40mm f/2.8Gをとりあげてみよう。DXマイクロレンズとしては2本目となるこのレンズには、設計者のどんな想いがつまっているのだろう?
大下孝一
DXレンズは、第六十八夜で紹介したAF-S DX Zoom-Nikkor 12-24mm f/4G IF-ED(2003年発売)に始まり、その翌年の2004年には、D70発売とともにAF-S DX Zoom-Nikkor 18-70mm f/3.5-4.5G IF-ED、AF-S DX Zoom-Nikkor 17-55mm f/2.8G IF-EDが発売され、年々ラインナップを拡充してゆくわけだが、その多くが標準ズームとそれに組み合わせて使われる望遠ズームだった。それは、当時デジタル一眼レフの売れ筋は、D70やD50といった比較的低価格カメラで、まずはそれにキットとして販売されるレンズの開発を優先したためだろう。またNIKKOR Fには豊富なラインナップがあり、既存のレンズと組み合わせて使ってもらえばよいという思惑もあった。
しかしD40、D200、D300とデジタルカメラのラインナップが増えると、こうした新規ユーザーに向けたDXレンズが求められるようになる。そしてここにDX望遠ズームレンズ開発での知見が後押しとなった。これまで、DX専用設計のレンズは、広角系レンズや標準ズームでは小型化や低コスト化に効果はあるが、望遠系レンズには小型化の効果は乏しいと思われていた。しかし実際DXの望遠ズームを開発してみると、期待以上に小型で安価なレンズを設計することができたのである。キットズームを購入したユーザーに、レンズ交換の楽しさを伝えるもう一つのレンズを提供したい。それにはやはり開放でボケ描写が楽しめる明るい単焦点レンズやぐっと寄れて小物や花の撮影のできるマイクロレンズだろう。そして気軽に手に取ってもらうには、軽量小型でできるだけ安価なレンズにしたい。そんな想いから企画された1本がAF-S DX Micro NIKKOR 40mm f/2.8Gだったのである。
このレンズの設計を任されたのは毛利元壽(もうり もとひさ)さんである。毛利さんは私の5年後輩で入社し、私とともに主にフィルムコンパクトカメラの光学系や一眼レフのファインダー設計を担当した方で、担当分野が重なる部分が大きく、つきあいの長い設計者の一人である。コンパクトカメラのファインダーでは、先輩である私が設計の手ほどきをした後輩の一人だが、一眼レフのファインダー設計では、毛利さんの方が設計経験が長く、私がプロネアSやD1のファインダーの設計担当になった時には、逆に毛利さんから設計の極意を教わった。私の師匠でもある人だ。
交換レンズでは、このレンズをはじめ、ニコノスRS用のフィッシュアイレンズの設計を手掛けている。毛利さんとは、30年前のフィルムコンパクトカメラ全盛の頃には、2人して手当たり次第に会社の備品を借り、他社コンパクトカメラの試し撮りを随分長い間行っていた。そしてプリントを持ち寄っては、このカメラはAF精度がよくないとか、このカメラはこのフィルムと相性がいい、広角側の周辺はいいけど望遠端が全体に今一つなど、使ってみた印象を話し合っていたものである。こうした知見が彼の交換レンズ設計に活かされているのだろう。
設計は、2009年春ごろから着手され、翌年春にようやく設計がFixする。その間VR機構を搭載したレンズ案を含めいくつかのレンズを設計し、その中から、マイクロレンズでありながらDXボディーにマッチする軽量小型なレンズであること、「もう1本のレンズ」として購入してもらうために出来るだけ安価なレンズというコンセプトにマッチする光学系としてこのレンズが選ばれた。そして試作と数回の量産試作を経て2011年8月に発売となったのである。
AF-S DX Micro NIKKOR 40mm f/2.8Gのレンズ断面図を図1に示す。
このレンズは、3つの群で構成されており、第3群は固定され、第1群と第2群が間隔を変えながら繰り出されフォーカスを行うことで等倍至近距離にいたるまで高い性能を維持している。この解説だけでは第七十四夜に紹介したAI AF Micro Nikkor 60mm F2.8Sと同じだが、特徴は1群と2群の構成にある。AI AF Micro Nikkor 60mm F2.8Sがダブルガウスタイプを基本にしたレンズであったのに対して、このレンズではレトロフォーカスタイプを基本としている。そしてその後ろに凹の3群を配置した光学系であるため、全体として凹凸凹の対称型レンズ配置となり、歪曲収差の補正や近距離での収差変動抑制に強いレンズ配置となったのだ。また、1群と2群をレトロフォーカスタイプにすることで、40mmという短い焦点距離でありながら、像面との間に3群を配置できる長いバックフォーカスを確保している。
第七十四夜でお話した通り、マイクロレンズの設計で重要なのはフォーカスレンズの移動量の抑制で、最も大きく移動する1群で3cm強の移動量に抑えている。そして鏡筒は60mmのマイクロレンズと同様に、内筒と外筒の2重になっており、外筒の繰り出しを抑制するようになっていて、コンパクトな外観に一役買っている。
収差補正上のこのレンズの特徴は、マイクロレンズらしく歪曲が極めて小さいことと、無限遠から等倍まで収差の形状が変わらないことである。今までの全体繰り出しを基本とするマイクロレンズは、近距離になるにしたがって球面収差が増加していたが、このレンズでは、1群2群の構成をレトロフォーカスタイプに一新したことで、近距離での球面収差の増加を抑えることができたのである。また球面収差とコマ収差の補正にも特徴があり、無限遠から近距離にいたるまで、補正不足の傾向に収差が残存している。このため、開放ではわずかなフレアの発生が予想されるが、同時に背景ボケが非常に美しいことが期待される。これは、このレンズで撮影される主な被写体が花や小物、ペットなどを想定しているからで、毛利さんがこだわった点の一つであろう。
それではいつものように実写でレンズの描写をみてゆこう。今回はDXレンズということでD3300と組み合わせて撮影を行った。レンズ自体もたいへんコンパクトで小型のDXボディーとマッチする。ただ、マイクロレンズの場合はライブビューで精密に構図やピント合わせを行う機会が多く、またローアングル撮影も多用するため、バリアングルモニターを搭載したD5000系がよりマッチすると感じた。
このレンズを使う上での注意点は手振れの抑制である。いま多くのカメラレンズにはVR機構が搭載されているが、残念ながら小型と低価格を最優先したこのレンズにはVRが搭載されていない。さらに近距離撮影では、手振れに加えて風などによる被写体ブレが目立つため、できるだけ高速シャッターで撮影するように心がけたい。
作例1は、絞り開放で撮影した遠景画像である。このレンズの特徴として、すべての撮影距離で、補正不足の方向に球面収差や周辺コマフレアが残存するように設計されている。そのため子細に見ると、画面中心部からわずかにフレアがかかり周辺部にかけてフレアが増していることが見てとれる。高コントラストでかっちりした写真を撮るにはF5.6からF8に絞り込んで撮ることをおすすめしたい。また歪曲収差や倍率色収差はマイクロレンズらしく極めて小さく、RAW現像時、歪み補正や倍率色補正はOFFで問題ない。以降の作例でも歪み補正、倍率色収差補正はOFFで現像している。また、開放から周辺光量も極めて豊富で、この作例からもみてとれるだろう。
作例2は絞りF8で撮影した夜景写真である。F8に絞り込んだことで、画面周辺にいたるまで、きわめてシャープで透明感のある描写が得られている。またこの作例も被写体の多くが直線で構成されているが、歪曲が極めて少ないことがわかるだろう。
作例3は、中距離開放で撮影したユリの花である。このレンズの最大の特長は背景のボケの美しさである。この作例にもこの効果が発揮され、ピントの合った画面中心のユリのつぼみから、遠ざかるに従って、フレアによるにじみを伴いながら、なめらかにボケている、輝点ボケのエッジはなだらかに暗部とつながり、ボケのエッジが全く感じられない美しいボケ像である。マイクロレンズは主に花の写真に使われるのだからと、毛利さんがこだわりぬいた点である。一方前ボケは、エッジに赤の色づきがみられ、少しうるさい印象があるが、写真全体として破綻のないボケとなっている。
一方作例4は、F5.6に絞り込んだユリの写真で、画面全体均質な描写となっている。画面手前のヤグルマギクあたりの前ボケに着目すると、絞り開放でみられたボケ像の赤いエッジは消え、リング傾向の素直な前ボケになっている。この領域では小さなリングが目立っているが、より大きく前ボケをぼかせばエッジの強度が弱まり、より好ましいボケになるだろう。また、作例3のごく四隅のボケには、サジタルコマの影響によるボケの濃淡がみられたが、F5.6に絞り込んだ作例4ではこの傾向も解消されている。
作例5は、作例3よりさらに寄って撮影したキンギョソウの花である。絞り開放で撮影したが、近寄って撮影している分、背景のボケ像は大きくなっている。このレンズのボケ味の傾向は、どの撮影距離でもほぼ変わらず、この作例でも美しい背景ボケは健在である。またボケが大きくなった分、前ボケの2線ボケ傾向も、四隅の後ボケのうるささも緩和され、より美しいボケになっている。
作例6は、さらに寄って撮影したオダマキの花である。オダマキの花の不思議な立体的な姿を映すため、絞りF8に絞り込んで撮影している。オダマキの花は派手なので、見た目は大きく見えるが直径数センチしかない。かなり寄って撮影しているため、F8に絞り込んでも、背景は大きくボケている。
作例7は、F5.6に絞って撮影したケマンソウの花である。コマクサに似たピンクでハート形の花がかわいらしい。撮影倍率は1/5~1/6xくらいで、35mmフルサイズに換算すると1/3.3~1/4xの倍率に相当する。DXのマイクロレンズの場合、画面サイズが小さい分、同じ撮影倍率であってもフルサイズに対して1.5倍の拡大率が得られる。小さいものを拡大して撮影するには、DXフォーマットが有利なのである。
作例8は、このレンズの至近距離、撮影倍率1倍、絞り開放で撮影したマーガレットの花である。マーガレットの花は直径5cm弱しかなく、これだけ拡大して撮影できるのはこのレンズならではの効果である。また、このレンズはアタッチメントサイズが52mmであることから、第八十六夜で紹介したリバースリングBR2Aを組み合わせることで、撮影倍率等倍を超えた撮影も行うことができる。
マイクロ域の撮影でこのレンズのチャームポイントは、その明るさと性能の高さである。第七十四夜で紹介したAI AF Micro Nikkor 60mm F2.8Sでは、等倍時の実効FナンバーはF5だったが、このレンズはF4.2と半絞りも明るいのである。そして、それまでのマイクロレンズが、近距離になるにしたがって球面収差が増大し、性能が暫時低下していったのに対して、このレンズは軸上色収差が増大するものの、球面収差が等倍までほとんど変化しないため、等倍絞り開放でも高い性能をもっているのである。この作例8でも、花の中心にある管状花の様子や、花びらに載った水滴の様子が克明に描写されている。
一方弱点もある。一つはワーキングディスタンスの短さだ。至近距離でのレンズ鏡筒先端から被写体までの距離は3.5cmほどしかない。フード装着時の先端から被写体までの距離はさらに短く2cmくらいだ。等倍近くの近距離撮影時にはフードを外し、レンズ先端が被写体に触れぬよう、またカメラやレンズが被写体に影を落とさないよう、ライティングに気を使って撮影する必要がある。またもう一つの欠点が、わずかな撮影距離変化で撮影倍率が大きく変化することである。そのため近距離撮影では、マニュアルフォーカスによる撮影をおすすめしたい。実際にユーザーとして使われている皆さんはよくご存じだと思うが、このレンズの距離指標をみると、至近距離0.163mの次の指標は0.17m。このわずか7mmの撮影距離の差で、撮影倍率が1/1倍から1/1.4倍に大きく変化してしまうのである。ちなみに倍率1/2xの距離も0.19mほどで、等倍からの撮影距離の差は3cm弱しかない。このように撮影距離変化に対して撮影倍率変化が大きいため、撮影範囲や構図を決めて撮影する上では、レンズのフォーカス位置を予め決めておき、被写体とレンズの距離をコントロールしてピント合わせをすることが望ましいのである。フォーカス環やAFによるピント合わせは、最後の調整に留めたい。これら2つの欠点は、焦点距離40mmという短い焦点距離のマイクロレンズでは原理的に回避が難しいことがらなので、このレンズの個性と思って楽しんでいただければ幸いである。
2011年8月に発売されたこのレンズは、爆発的にヒットするには至らなかったが、2023年の今でも継続販売されている息の長いレンズである。
マイクロレンズというとなんだか難しそう、専門家の使う高価なレンズというイメージがあって敬遠されがちなレンズかもしれない。しかし、単純に「一番寄れるレンズ」だと考えれば、それほど特殊なレンズという感じはしないだろう。そして近寄って、被写体の肉眼では見えないような細かい部分を見るのは、新鮮な驚きがあり、ミクロの世界の造形の美しさを感じることができる。このニッコール千夜一夜物語では、マイクロレンズのシビアなピント合わせやブレ低減などマイクロ撮影の難しさも語ってきたが、はがきサイズくらいの撮影なら、それほどシビアに考える必要もなく普通の撮影の延長である。またそれ以上の拡大撮影であっても、思い切り連写をして、ブレのないピントの合った写真を選べばよいと思う。あまり肩肘張らずマイクロ撮影を楽しんでほしい。
このレンズの背景ボケの描写をみると、今までのマイクロレンズと一線を画しており、平面複写の解像に重きをおいた設計から、フィールドでの立体物の描写や背景ボケに力点を移した新しい世代のマイクロレンズだと感じた。最至近の撮影ではやんちゃなところはあるが、コンパクトでボケの美しいかわいいレンズである。