フラッシュ撮影の妙技、最も安価な高機能パンケーキレンズ
GN Auto NIKKOR 45mmF2.8
八十一夜は久しぶりの一眼レフ用レンズです。発売当初、非常に安価なニッコールレンズでした。しかし、鏡筒の作りは高級品そのもの。円形絞りといい、パンケーキ仕様といい、GN機構といい、商品開発のコンセプトの優れた銘品でした。
今夜は本来の目的とは少し違うところで人気者になったパンケーキレンズ。今夜はその秘密を解き明かしましょう。どんなレンズなのでしょう。開発にはどんな秘話が隠されているのでしょう。そして設計者は。
さぁ、今夜もその秘密を深く掘り下げていきましょう。
佐藤治夫
GN機構の「GN」はいったいなんなのでしょう。若い方にはあまり馴染みがないかもしれません。ストロボフラッシュの性能尺度に「ガイドナンバー(=GN)」という指標があります。今では適切な光量を完全自動発光するシステムが主流です。当社のスピードライトも完全自動調光が当たり前の技術になっています。要はガイドナンバーGNが撮影距離に応じて自動的に変わるのです。しかし、ストロボフラッシュの創成期は違いました。クセノン管が連続発光するだけで大発明だったのです。一発のみの使い捨てフラッシュバルブの時代から、何度も発光できるストロボフラッシュの時代に進化したのです。その頃は発光のパワーは一定(ガイドナンバーが定数)。撮影距離に応じて絞りやシャッタースピードを変化させ適正露出を得ていました。そこで重要な、言わば基準値が「ガイドナンバーGN」だったのです。
ガイドナンバーの定義は「ISO100の時に1mの撮影距離で適正露出となる絞り値」のことなのです。ガイドナンバーは簡単に言えば、ストロボのパワー(発光量)を表す数値。「GN」と表記されることが多く、以下のように計算します。
ガイドナンバー GN= 撮影距離 R× レンズの絞り値Fno・・・(1式)
要はストロボのパワー = 撮影距離(光の届く距離)と考えると理解できるかもしれません。なので、計算の基準値をガイドナンバーから撮影可能距離に置きかえると以下のようになります。
撮影距離 R= ガイドナンバーGN ÷ レンズの絞り値Fno・・・(2式)
逆に被写体までに距離が確定してストロボの光量が一定な場合、それに合わせて絞り値を変えて適正露出を得るとします。そうすると、
∴ レンズの絞り値Fno=ガイドナンバーGN÷撮影距離R・・・(3式) になります。
いうことは、この式に従って、絞り環とレンズ側の距離繰り出し機構と連動させる機構を付ければ、常に適正露出が必要な絞り値が自動で決まるのです。
レンズ側の距離繰り出し機構と連動させる機構を付ければ、適正露出が必要な絞り値が自動で決まる。
ここで先に示した3式を再度ご覧ください。1/Rに比例してFnoは大きく(暗く)なります。ということは被写体が近づき、近距離ではFnoが大きく絞り込むことで適正露出が保たれます。ところが通常のニッコールレンズの距離環の指標の方向は逆です。また、ピント合わせのための操出量はレンズの焦点距離と撮影倍率によって決まります。したがって、その繰り出し量を絞り段数の変化と合わせるためには線形ヘリコイドではなく、非線形のカムを使う必要がありました。GNニッコールはこの2点を満足させるために、通常のニッコールと逆回転の距離環カムを用いて鏡筒設計しています。実に凝った作りなのです(写真1参照)。どうも、カメラ用交換レンズに搭載したのはニコンが最初のようです。かなり古くから研究されており、ニコンF開発時にはすでにGN35mmの試作品がありました(2018年10月企画展「幻の試作レンズたち」にて展示)。しかし製品になったのはGN45mmF2.8が初めてです。45mmに焦点距離を伸ばしたのは、準標準レンズにこそこの機構を採用すべきと考えたのかもしれません。またパンケーキにする意図があったのかもしれません。真相は霧の中です。
それではこの画期的な機構はその後どうなったのでしょうか。業界ではその後1973年に東京光学のトプコールにも採用されました。しかし、それ以外はあまり一般化されなかったようです。その理由は、おそらくストロボの進化が思いのほか早く、自動で調光する「オートストロボ」が主流になったからでしょう。そしてGN機構はその役目を終えたのです。
それでは開発履歴を見ていきましょう。目立つ事を嫌う日本の名設計者は、一般に知られる事がありませんが、その足跡は数々のパテントと報告書によって顧みることができます。光学設計報告書提出は1967(昭和42)年5月にレコードされていました。試作は1967年4月22日に出図されています。そして量産図面は1967年10月27日に出図されています。出図は量産が1967年に始まったことを意味します。当時の習慣として設計完了してすぐに報告書を書くのではなく、落ち着いてから出すことが多かったと聞いています。このレンズの場合も試作図面をまずは完成させ、落ち着いてから報告書を出した可能性が高いです。設計開始は残念ながらわかりませんでした。発売は1969年3月です。そして1974年に多層膜コーティング化と第1レンズの外径を少し変更した改良型が発売されます。製造完了は1977年でした。市場にはその後も若干在庫していたでしょうが、1977年販売終了と考えると約9年間の販売期間でした。
それでは光学設計者についてみていきましょう。光学系の設計者は、誰あろう「ニッコールオートの生みの親」清水義之氏です。清水さんはこの時期同時に数々のレンズを手掛けていました。このレンズのコンセプトは小型高性能。極力構成枚数が少なく全長を短く、そんな設計目標が立てられていたと思われます。そこで清水さんの選んだレンズタイプがテッサータイプでした。しかし、テッサータイプは画角に弱い。口径と画角の両立が難しいレンズタイプでした。そんな困難をものともせず、非常に短時間で画角2ω=51°を越えるテッサー型準標準レンズを設計したのです。しかも高性能で低価格。発売当初の定価が16,500円。非常に安価なニッコールレンズでした。今回も清水さんは素晴らしい仕事をしてくださいました。
それではGN Auto NIKKOR 45mmF2.8の断面図(図1)をご覧ください。少々難しいお話をしますがご容赦ください。このレンズは典型的なテッサータイプのレンズです。
向かって左側から光線が通る順番に見ていきましょう。まず凸レンズ、次に強いパワーを持つ凹レンズ、絞り、凹レンズと凸レンズを貼り合わせた接合凸レンズからなっています。したがって構成は凸凹凸のトリプレット構造であることがわかります。使用しているガラスは当時の新種ガラスのLa(ランタン)系ガラスを使用し設計されていました。第1第4レンズ(凸レンズ)にnd=1.7を超えるLa系ガラスを用い、第2第3レンズ(凹レンズ)にはF(フリント)系のガラスを使用する。王道の設計ですね。トリプレットタイプやテッサータイプはいかに高屈折率ガラスで構成できるかが、基準線の収差を良好に補正するコツなのです。その点でもこのレンズが、当時使用できる最適な硝材の組み合わせで設計されていたと言えるでしょう。何気ない4枚玉のテッサーであるからこそ、構成枚数が少ないからこそ、設計者の知恵が生きてきます。この設計の難しさは45mmという準広角をテッサータイプで設計しなければならないことでしょう。通常標準レンズは50mm。画角で言えば2ω=46°です。ところが45mmを達成するには2ω=51°以上をカバーしなければならない。ただでさえ画角に弱いテッサータイプですから、設計には巧みな知識とテクニックが必要です。それは第1第2レンズの最適な曲率半径の設定やG3G4レンズの硝材選び。ペッツヴァールサムの最適な設定。清水さんの設計を拝見すると、当時のガラスで良くここまで設計できたと驚嘆するばかりです。1960年代では間違いなく最高のテッサーレンズであったに違いないのです。
まずは設計データーを参照しましょう。以前お書きした通り、評価については個人的な主観であり、相対的なものです。参考意見としてご覧ください。
このレンズは前記の通り対称型の特徴を持ち備えています。したがって、ディストーションが少ないこと、倍率色収差が非常に少ないことは周知の事実です。それでは他の収差はどうでしょう。まずは無限遠の性能を見ていきましょう。初めに球面収差とコマ収差です。球面収差は若干オーバーコレクションになっていますが、その分輪帯が少なく高解像が望めます。次に色収差ですが、一般的に色収差の補正帯域を波長ではなくg線、C線などの原子や分子のスペクトル線の名を用いて表現します。このレンズの軸上色収差は俗にいうC-g色消しになっています。トリプレット、テッサータイプはg線のフレアーが発生しやすい傾向がありますが、このレンズは軸上色収差で巧みにバランスさせることによって防いでいます。また、コマ収差に至っては最周辺まで皆無です。しかし、極コーナー部分のみ、やや内コマ気味になっています。サジタルコマ収差の補正もすばらしく、ほとんど気になりません。画面全域を横収差で観察すると、点像強度分布も全域で相似であることが期待できます。それでは像面湾曲と非点収差はどうでしょうか。像面湾曲は球面収差の輪帯とペッツヴァールサムに合わせて微量ながら負に残存させています。ペッツヴァールサムは0.0057と45mmF2.8のテッサー型写真レンズとしては少し大きめでまとめています。非点収差は像高9割までほとんどありません。像面湾曲と非点収差に欠点が表れやすいテッサータイプですが、さすが名人の設計です。光学設計者なら、皆この収差図の美しさにうっとりすることでしょう。近距離収差変動はどうでしょうか。このレンズはパンケーキレンズなので、若干至近距離は長めです。最至近距離は0.8mです。至近では球面収差の輪帯が若干増えますが、ピント位置はあまり変化しません。うまくバランスさせています。像面湾曲は若干マイナスに変化しますが、メリジオナルの変化にサジタルも追従するので、非点収差の変化は最小です。コマ収差は減少する方向で、像面湾曲に追従する様に変化します。良く近距離収差変動を抑え込んでいます。非常に優秀なテッサー型写真レンズです。
次に点像強度分布、スポットダイヤグラムを観察します。開放F2.8ということもあり、センターは良好ですがオーバーコレクションの影響でほのかにフレアーが取り巻いています。しかし、1/3段絞り込むだけできれいに取り去ることができます。中間部はフレアーが少なく、芯のエネルギー強度が高いです。サジタルコマフレアーも皆無です。さすがに最外周のコーナー部分は、非点収差の影響もあり、解像感を失います。しかし総じて言えることは、極最外周コーナー部を除き軸外全域でサジタルコマフレアーが少なく良好な点像形状をしているということです。その結果センターから中間部、周辺部では高解像力が期待できます。倍率色収差が少ないため各色のエネルギー集中度が高く、高解像力に対する好条件が揃っているのです。
それではMTFはどうでしょうか。10本/mmと30本/mmの条件で、コントラストの再現性を確認してみましょう。センターは30本/mmで50%以上のコントラストがあります。オーバーコレクションの球面収差の影響で少し低めです。しかし、その分見かけ上の被写界深度が広がるという利点も持っています。周辺になるに従い特にサジタル像面のピークはマイナスにずれます。センターのベストフォーカス位置における中間部分のサジタル像のコントラストは低下します。しかしこの時、センターを少し落として、所謂前ピンにすると周辺のピークが向上します。そのピント面の移動によって画面平均画質が高まるのです。その時周辺のコントラストは30本/mmで30~40%まで回復します。10本/mmに至っては最周辺まで80%程度を有しています。
近距離においてもほぼ同様の傾向ですが、若干周辺の平面性能が低下します。しかし特にこの焦点域のレンズは、中近距離撮影時は平面性能よりもボケ味等の3次元的描写特性の方がはるかに重要です。このレンズも近距離収差変動は後方のボケ味が良くなる方向に収差変動が生じます。遠景ではボケ味が少し硬めでも近距離ではボケ味が美しい、そんなレンズに我々は良く出会います。まさにそれが、このような収差変動の生み出す効果なのです。それは神業なのかもしれません。このGNニッコールにも同じ香りがします。
次に遠景実写結果を見ていきましょう。今回はニコンZ 7にFTZマウントアダプターを使用してレンズを装着しています。
それでは、各絞り別に特徴を箇条書きに致します。評価については個人的な主観によるものです。参考意見としてご覧ください。
F2.8(開放)
全体的に少し柔らかな印象があるが、ピクセル等倍して確認すると十分解像力がある。特に中心部から中間部は解像力が高い。周辺部に向かうにつれて徐々にコマのフレアーが発生する。中心も周辺も色収差はほとんど感じられない。色にじみが無く好印象。ごく最周辺、コーナー4つ角のみ像が乱れている。
F4
一絞り絞っただけで中心から周辺までのフレアーが消え去り、コントラストが向上。センターにおける画質、切れがさらに良くなる。中間部分から周辺まで画質向上。ごく最周辺、コーナーは改善するもシャープネスは弱い。
F5.6
全面にわたりシャープネスがさらに向上。フレアーがほぼ消える。中心部から中間部までは解像力が開放から比較的高かったが、さらなる向上が図れる。コントラスト、像のクリアーさが絞り込むことで改善されて申し分ない画質になる。
F8
画質が全面でさらに一段向上する。しかし、ごくごく端ではフレアーは残るが申し分ない画質。全面で所謂高画質に変化する絞り値。常用で推奨できる絞り値。
F11
ごく最周辺まで均一で全面良好な画質。さらに画質が向上する印象。F5.6、8、11と画質が向上するが、風景では深度を考えてF8~F11で撮影することを推奨する。
F16
全面平均化はされているが、若干解像力が低下する。回折の影響がではじめるか。
F22~32
明らかに解像力が低下。回折の影響と思われる。やはりここまでは絞らないほうが良い。
風景撮影ではF8~11が最適だと思われます。しかし開放F2.8でも十分な画質を持っているので、スナップ等であれば周辺画質の低下は気にならないのではないでしょうか。また周辺光量がたっぷりあるので、開放でも周辺光量不足は気にならなかったです。
それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。
ニッコール千夜一夜物語の作例はレンズの素性を判断していただくために、ピクチャーコントロールは通常ポートレートモードを中心に輪郭協調の少ないモードを使っています。しかし、今回は作例が風景主体ということもあり、部分的にオートモードを採用しています。また、あえて特別な補正やシャープネス・輪郭強調の設定はしておりません。撮影は一般ユーザーの撮影を想定した風景スナップを中心に致しました。
作例1は開放絞りF2.8で撮影しています。半逆光です。撮影距離は1.5~2mぐらいです。結像部はシャープで申し分ありません。あえてDefocus状態の判定に適した背景素材を選びました。ボケ味も破綻なく、テッサータイプの準広角レンズとしては癖の少ない良いボケ味だと思います。
作例2も開放絞りF2.8で撮影しています。この作例も半逆光ですが作例1より光線の光量が強いです。撮影距離は若干近い約1mです。結像部はシャープで申し分ありません。あえてDefocus状態の判定に適した背景素材を選びましたが、髪の毛の微ボケも破綻なく、テーブルの上の飾りも破綻なくぼけています。テッサータイプの準広角レンズとしては癖の少ないレンズだと思います。
作例3も開放絞りF2.8で撮影した作例です。この作例は2~3mと少し遠くから写してみました。中心から周辺まで解像感も適度なコントラストも感じ取れる好ましい画質です。これといって欠点は感じられません。
作例4も他と同様に開放F2.8で撮影していますが、非常に強い逆光時の作例です。レンズのゴーストが写り込んでいます。これらすべての作例はコロナ禍で手元にある他社製マウントアダプターを使わざるを得なかったため、鏡筒フレアーに悩まされました。ハレ切りを怠り若干残ってしまい、全体のコントラストを低下させています。レンズ本来の性能を見るために、若干コントラストの修正、D-ライティングを強めにかけました。また色調も黄色かぶりを補正しています。その結果レンズの素性に近い姿になったと思います。ピント面のシャープネスはこの光線の状態でも維持されていて立派だと思います。ボケ味はこの距離では若干固い印象です。ボケ味は近距離では素直でしたが少し遠くなるとヴィネッティングの影響も受けて少し硬くなるようです。
作例5も他と同様に開放F2.8で撮影していますが、非常に強い逆光時の作例です。この作例も他社製マウントアダプターの鏡筒フレアーのために大きく全体のコントラストを低下させています。レンズ本来の性能を見るために、若干コントラストの修正、D-ライティングを強めにかけました。また色調も黄色かぶりを補正しています。その結果レンズの素性に近い姿になったと思います。やはりピント面のシャープネスはこの光線の状態でも維持されており、立派だと思います。
作例6も開放絞りF2.8で撮影しています。この作例はボケ味を確認するために写しました。ピント面までの撮影距離は若干近い約1mです。結像部はシャープで申し分ありません。肝心のボケ味ですが、Defocus領域の微ボケから大ボケにつながる状態を確認できると思います。テーブルの上の飾りも破綻なく、カーテンの模様のボケ味も良好です。ボケ味が硬くなりがちな準標準テッサータイプのレンズが多い中、このレンズはボケ味に癖の少ないレンズだと思います。
この章ではトリプレットとテッサータイプの秘密を探ってみましょう。歴史的検証もかねてトリプレットの収差構造から確認していきます。
トリプレットの発明がなぜ革新的だったか。それは1800年代後半、ペッツヴァールサムの最適な設定が唯一可能になった解であるからです。それまでの写真対物レンズの設計は、色消しダブレットを成長させて3枚、4枚と接合することで収差補正を行う方法が主流でした。ところが当時のガラスの組み合わせで色消しを行おうとすると、ペッツヴァールサムが大きくなる一方でした。色消しを悪化させる接合であれば、ペッツヴァールサムが小さくできます。しかしそれでは色収差の補正ができません。ペッツヴァールサムはP=Σ(1/(ni・fi))という比較的簡単な式で求まります。niは構成する個々のレンズの屈折率。fiが個々のレンズの焦点距離です。個々の各レンズの1/(ni・fi)の値の総和Pがペッツヴァールサムになります。凹レンズは負の焦点距離です。したがって、凹レンズのfiが小さい(パワーが強い)とマイナス成分が増加します。そこがペッツヴァールサムを小さくする秘訣なのです。しかし、対物レンズは全体で凸レンズです。ただ単に並べていくだけでは凸が優勢になります。要は凸のパワーと凹のパワーでは凸の方が強いのです。同じ屈折率niの硝材だけではペッツヴァールサムは小さくなりません。そこで注目したのが屈折率nに差をつけることです。屈折率を凸n>凹nにする。そうすればペッツヴァールサムは小さくなる。しかし問題は色消しです。ショットによってBak(バリュームクラウン)ガラスが発明されるまでは、色消し可能なガラスの組み合わせはすべて凸n<凹n。凸n>凹nを実現することは不可能でした。ペッツヴァールサムを考え出した張本人、ペッツヴァール大先生も悩みに悩んだ末、ペッツヴァールサム未達の狭角大口径ポートレートレンズを設計します。最もペッツヴァールサムに悩んだ人、その人こそその理論を構築した張本人だったのです。なんとも皮肉な話です。
話をトリプレットに戻します。それではトリプレットはペッツヴァールサムをどうやって満たしているのでしょうか。そこに知恵があるのです。各レンズの空気間隔を広げると、合成のパワー同じに保つには各レンズのパワーを強める必要があるのです。ということは、うまい具合に凸と凹の間隔をあけると凹のパワーを強めることができる。ここが突破口でした。1/(ni・fi)の凹のfiを小さくできる。この手法で旧ガラスしかない時代に、クック社の設計者はペッツヴァールサムを小さく抑えることに成功したのです。しかも広角で明るい写真対物レンズを、たった3枚のレンズ構成で実現した。まさしく光学の世界で最も優秀な発明の一つでした。
皮肉なことに、当時光学業界で最も先行していたドイツが、イギリスの小さな光学会社に光学理論で水をあけられたのです。まさに決定的な敗北。ツァイスが接合と対称構造のみで勝負していた看板商品のプロターでは、収差設計をする前にすでに負けていました。しかし、大ツァイスも黙ってはいません。直ちに巻き返しを図ります。光学大国ドイツの名にかけた猛反撃です。その結果生み出されたレンズが銘玉テッサーなのです。当時のツァイスの説明は次のようなものでした。1893年に開発した「ウナー」の絞りより前側の凸凹2枚と1890年開発の看板商品「プロター」の絞り後方の凹凸接合レンズを組み合わせて新開発(1902年)したものがテッサーである、と。しかし、それはツァイスの苦しい言い訳であることは明らかです。テッサーはトリプレットの像側のレンズを接合にしたと考えることが自然です。そうです、あの大ツァイスが真似た。しかしただの物まねではなかった。お手本にしたと言うべきでしょう。ここでポイントになるのは「接合レンズ」です。皆さんは、この接合レンズでなんの収差を補正していると思いますか。普通、色消しか球面収差補正と思うでしょう。だとすると、テッサーもトリプレットとさほど変わらない性能、スペックに納まってしまったでしょう。実はこの接合は、さらにペッツヴァールサムを小さくするための接合だったのです。クックのトリプレットは大発明でしたが、ペッツヴァールサムはさらに改善する余地がありました。さらなる広角化、高性能化のためには無理のない非点収差、像面湾曲の補正が必要です。そこでペッツヴァールサム、非点収差、像面湾曲の補正に自由度を持たせるために「凸n>凹n」の接合凸レンズを使ったのです。その結果、トリプレットが更なる飛躍を果たしました。また絞りを挟んで前方が分離の凸凹、後方が接合の凹凸になる訳ですから対称構造も保てます。この改良によって、ここにまた素晴らしい写真対物が完成したのです。これがトリプレットとテッサーの秘密と歴史だったのです。
皆さま、今回はいかがでしたか。今回は少し専門的になりすぎましたでしょうか。ニッコール千夜一夜物語の読者の中には光学的考察を期待している方々も居られるようです。今回の第八十一夜はそんな方々のご要望にお応えするように試みました。ニッコール千夜一夜物語を執筆して二十年を優に越えました。しかし、未だ切磋琢磨して皆さまのご要望に応えられる道を模索しております。ご要望、感想等がございましたら遠慮なくご連絡くださいませ。今後ともよろしくお願いいたします。