Nikon Imaging
Japan
プレミアム会員 ニコンイメージング会員

第七十七夜 NIKKOR-S 50mmF1.4

最後のNikonS用レンズ、祭典の申し子
NIKKOR-S 50mmF1.4

第七十七夜は久しぶりにNikonS用レンズのお話です。1964年に再生産されたニコンS3用の標準レンズとはどんなレンズだったのでしょう。5cmF1.4ではなく50mmF1.4とミリ表記になった唯一のS用レンズ。開発にはどんな秘話が隠されているのでしょうか。そして設計者は。今夜は1964年の記念すべき年に思いを馳せて、最後のS用レンズの秘密を解き明かしましょう。

佐藤治夫

再生産S3に託された新標準レンズ

1964年。その記念の年にニコンS3は黒い衣装をまとい再生産されました。のちにこの再生産されたブラックのS3は、特別な意味を持ちコレクターズアイテムになります。それではなぜ一眼レフが登壇して久しいこの時代に、レンジファインダーカメラを復活させたのでしょうか。まさに報道上のニーズ、時代の必然性から復刻されたという説があります。この頃は一眼レフ用広角レンズが今ほど充実していなかったのです。そこで広角レンズが充実していて、コンパクトで使い勝手の良いS型カメラが見直されたのです。この時代でもまだ「広角はレンジファインダー型カメラ、望遠は一眼レフ」と言われていたのです。そこに大きな出来事が生まれる。やはり新品でちゃんと動くS型カメラが必要とされました。しかし当時のニコンにとって、たかだか数年のタイムラグとはいえ、再生産は容易なことではなかったようです。そんな状況の中、付属レンズをどうするか。以前からSP用に5cmF1.4の改良案は複数検討されていました。そこで、せっかくだから標準レンズは新設計で、ということになりました。豊富な設計案の中から1本のレンズに白羽の矢が当たり、新生50mmF1.4が誕生することになったのです。

ゾナーとの決別、ガウス登壇

NIKKOR-S50mmF1.4は発売期間が短く生産数も少なかったため、単体の広告カタログの類はほとんど目にしたことがありません。それが原因で最近までレンズタイプが明らかにされていませんでした。本来この一本だけレンズ断面図を隠す意図などなかったのです。まさに偶然です。しかしそれが発端で、巷では色々なうわさが立ちます。中でも最新のゾナーが入っているぞ、と言ううわさは結構信じられていたようです。しかしこのレンズは、贅沢な7枚構成。正真正銘のガウスタイプの標準レンズでした。長年日本光学(旧ニコン)ではゾナータイプを研究し、多種多様な光学系を設計して来ました。特にS型の標準レンズはゾナータイプが定番でした。ところがS型レンズ最後の標準レンズは、正統的なガウスタイプで設計されていたのです。それではなぜゾナータイプを捨ててガウスタイプを採用したのでしょうか。それには幾つかの理由がありました。理由の一つは新種ガラスの登場です。この頃になるとLa系新種ガラスが開発実用化されてきました。La系ガラスはガウスタイプの結像性能を著しく向上させたのです。その効果はゾナータイプより顕著だったのです。他社の動向も同様でした。キヤノンは早くからガウスタイプを使った標準、中望遠を開発していました。当時の日本光学はゾナータイプの銘レンズをたくさん生み出していました。したがって標準レンズのガウス化は若干遅れていた様に思えます。S型標準レンズでは5cmF1.1とこの50mmF1.4のみがガウスタイプを採用していました。

それではなぜ標準レンズのみならず、色々な焦点距離のレンズがこの時代にゾナーからガウスに移行したのでしょうか。それは大きく2つの理由が考えられます。まず一つはガウスタイプがより大口径化に向いている点です。ゾナータイプも大口径に適性があります。しかし46度の画角を満足する純粋なゾナーでは、F1.4程度の明るさが限界です。また、製造親和性を考慮してもガウスタイプに軍配が上がります。もう一つはゾナーが、ガウスタイプと比較して近距離収差変動が大きいことです。理由はゾナータイプがテレフォトタイプのパワー配置を持っていることに起因します。やはり近距離収差変動は、対称型であるガウスタイプには勝てないのです。しかし、ガウスタイプを選択することで諦めなければならないことが二つあります。一つは大きさです。Bfが短くなり小型化に有利なゾナータイプには、ガウスタイプは太刀打ちできません。もう一つはガウスタイプが、サジタルコマ収差の補正が苦手なところです。この二点さえ目をつぶれば、ガウスタイプは容易に大口径化を達成できる優秀なレンズタイプなのです。時代の選択は、後の一眼レフ時代で正当性が明確になりました。NIKKOR-S50mmF1.4は当時のニコンにおいてガウス型標準レンズのいわば先駆けだったのです。

開発履歴と設計者

それでは開発履歴を見ていきましょう。光学設計報告書提出は1962(昭和37)年11月にレコードされていました。しかし設計を開始した時期は不明です。また、試作図面も1962年11月に出図されています。当時の習慣として、設計完了してすぐに報告書を書くのではなく、図面と同時に出すことが多かったと聞いています。したがって、実際の設計完了はもう少し早い時期であったと思われます。量産図面は1964年4月に出図されています。これは本格的な量産が1964年になったことを意味します。しかも試作を経て光学系が若干変更されています。そして発売。実は記念の年、1964年に発売できたのは奇跡に近かったのかもしれません。

光学系の設計者は度々ご紹介している「ニッコールオートの生みの親」、清水義之氏です。清水氏は脇本氏の設計技術をもっとも吸収した愛弟子の一人です。数々の銘レンズを生み出してくださいました。実は源流はこのレンズ、そうNIKKOR-S 50mmF1.4だったのです。このレンズは清水さんの処女作だったのです。私が新人の頃、よくご自分の生い立ちを絡めてこのレンズの開発秘話を伺いました。まさに清水さんの原点はここなんだな、と思いました。清水さんは元々レンズ研磨職場で働いていました。それを脇本先生が現場から1本釣りで引き抜いたそうです。脇本先生は清水さんに名レンズ設計者の資質を見たのでしょう。まだ磨かれてない原石を現場で発見したのです。そして清水さんは夜学を通いながら光学の勉強し、光学設計の手ほどきを受けます。やがて清水さんが初めて世に問うたレンズ、処女作を完成させます。それがSマウント最後のレンズNikkor-S 50mmF1.4だったのです。

レンズ構成と特徴

図1 レンズ断面図

それではNIKKOR-S 50mmF1.4の断面図(図1)をご覧ください。少々難しいお話をしますがご容赦ください。このレンズは典型的な7枚玉のガウスタイプのレンズです。F1.4の性能維持のために6枚玉の像側凸レンズを2枚に分割し、主に球面収差、コマ収差の良好な補正を担っています。7枚中4枚ものレンズがLa系新種ガラスです。当時としては最新のガラスを導入したことで、設計的に大きな飛躍がありました。これらの硝材を多用したことで、球面収差補正とペッツバール和の最適化の両立を成し得ています。絞りより前の接合レンズがいわゆる旧色消し(凹レンズの屈折率が高い)で後方の接合レンズは新色消し(凸の屈折率が高い)になっています。この構成も球面収差を良好に補正しつつ、ペッツバール和を最適値にすることで像面平坦性を向上させることに一役買っています。よく考えられた硝材の使い方、最適な構成、最適なベンディング。この美しい構成図を見ているだけで、高性能でよく考えられた描写特性が推測できます。清水名人の処女作ですが、すでに光学設計技術は匠の域に達していたことが分かります。Fの時代への幕開けを感じさせる一本です。

設計性能と評価

まずは設計データを参照しましょう。収差を見る前にまず気が付くことは、設計値のFナンバーがF1.40であることです。本来Fナンバーは√2系列ですから、F1.4はF1.4141…のはずです。それではなぜ、わざわざ明るく設計したのでしょう。実は、清水さんは古いゾナータイプのニッコール5cmF1.4のFナンバー問題を懸念し、あえて明るく設計したのです。このFナンバーには清水さんの設計者としての心意気を感じます。

それは収差の特徴から描写特性を推測してみましょう。まず無限遠から見ていきましょう。

全ての収差が上手に補正されていますが、最も特徴的なところは、周辺まで非点収差が少なく像面湾曲が少しマイナスにありますがおおむね平坦である点です。また画面の中心から端に至るまでメリジオナル、サジタル共にコマ収差は少なく点像再現性が良いことです。色収差も全般的に少なく、ヌケの良い色ノリの良い画像が期待できます。また近距離収差変動も少なく、明らかにゾナーよりもシャープネスの点で勝っています。さらに有限距離においては、球面収差がアンダーになり、像面湾曲もよりアンダーになるため良好な後ボケが期待できます。歪曲も無限遠で‐0.7%と非常に小さく無視できるレベルです。まさにこの当時の設計としては、他に勝る光学性能だったのでしょう。余談ですが、S3再復刻の際、私はこの収差特性を知って、このレンズの復刻を心に決めていたのです。当時のS型レンズの中で最も魅力的なレンズの一つだったのです。

次に点像強度分布、スポットダイヤグラムを観察します。ピント面ではごく周辺を除いては、ガウスタイプの泣き所、サジタルコマフレアーが非常に少ないことがわかります。点像は少し三角形になりますが、フレアーが少ないため好印象です。また前後のボケ方は非常に素直で、後ボケも良好で二線ボケ傾向は軽微です。

それではMTF特性を観察してみましょう。まず10本mmのMTFですが、ベストフォーカス位置では優秀で中心付近では80%近いコントラストの再現性能を有しています。中間部から周辺にかけても急落せず、55%~70%以上の性能を維持しています。したがってヌケが良い描写が期待できます。また30本/mmのMTFですが、ベストフォーカス位置では中心部分が優秀で50%近いコントラスト再現性能を有しています。中間から周辺部分にかけては緩やかなマイナスの像面湾曲があり、MTFのピークがマイナス方向に移動します。それでもメリジオナルでは30~50%近いコントラスト再現性能を有しています。特にサジタル像面がマイナスに抜けているのは、むしろサジタルコマ収差の発生を抑制し、点像性能には好ましい方向です。これらの性能を見るに、十分現在の写真システムに対応できる性能を有していることがわかります。

ローパスフィルターと光学性能

一般にローパスフィルターやその一連の光学系が画質に与える影響はあまり論じられていませんでした。良い機会なので、ここで少し考察してみましょう。

現在のデジタルカメラ用の交換レンズは、各社まちまちではありますが、基本になるモデルのローパスフィルターやその一連の光学系を使用する前提で設計されています。要はローパスフィルター込みで光学設計および性能評価をしているのです。しかし銀塩時代の古いレンズでは、レンズ系の後方には何も光学系が無い状態で設計されています。今回のように古いレンズを最新のデジタルカメラを使って使用する場合は少し注意が必要です。

気を付けなければならないことは「射出瞳位置、明るさ、画角」の3つです。とは言っても射出瞳はレンズに明記してあるわけではないですね。したがって予想せねばなりません。特に注意しなければならないレンズは対称型広角・超広角レンズです。中でも最も注意が必要なものがビオゴンタイプの超広角レンズです。一般的なデジタルカメラと組み合わせた場合、折角の対称型レンズですが、大きな負の歪曲を発生してしまいます。周辺の色付きも盛大に出ます。この現象はローパスフィルター系の厚さが厚いほど変化が大きいのです。また、撮像素子が睨んでいる瞳の位置によっても収差変化の程度は異なります。

また像面湾曲もプラスに変化します。これは画角が大きければ大きいほど注意が必要です。そして球面収差もプラスに変化しますので明るいレンズは要注意です。

その為、Z 7、Z 6、Z 50等のZシステムではオールドニッコールの収差を極力変化させないように、ローパスフィルター等の光学系を最小構成、最薄で設計しています。その点でも古いレンズを試すボディとしては最適であると言えます。Zシステムはニッコール千夜一夜物語の執筆でも大活躍です。今後ますます拍車をかけてオールドレンズの評価をしていきたいと思っています。

ちなみに今回のNIKKOR-S 50mmF1.4は、Zシステムのおかげで収差の変化は微小でした。また球面収差も像面湾曲も元々設計値が若干マイナス気味であったため、他のレンズよりさらに問題が少なかったと思われます。

実写性能評価

次に遠景実写結果を見ていきましょう。ボディはニコンZ 7に市販のマウントアダプターを使用してレンズを装着しています。今回、友人よりニコンS-ライカLマウントアダプターを譲り受け、さらにMLリング、M-Zマウントアダプターを介して撮影することができました。結構な失費でしたが、これでZマウントが文字どおり最強のシステムに変貌しました。今後もますますニッコール千夜一夜物語で活躍してくれるでしょう。

それでは、各絞り別に特徴を箇条書きに致します。評価については個人的な主観によるものです。参考意見としてご覧ください。

F1.40(開放)

全体的に薄っすらベールのような心地よいフレアーが取り巻く。しかし、割合解像力はある。周辺では主にサジタルコマフレアーが発生している。周辺部に向かうにつれて徐々にフレアーの発生が多くなる。個人的には好みの描写で、線が細くポートレートに向いていると思われる。

F2

一絞り絞っただけでググッと中心から周辺部までのフレアーが消失しコントラストが向上。センターはもとより、周辺部分における画質、特にコントラストが向上。ごく最周辺のみフレアーが残存する。

F2.8

最周辺のフレアーまで消失。全面シャープネス向上。解像力も高くなる。全面でいわゆる高画質に変化する絞り値。

F4

コントラストがさらに一段向上する。申し分ない画質。F4まで絞れば、十分このレンズの良さを引き出せる。常用で推奨できる絞り値。

F5.6~8~11

均一で全面良好な画質。5.6,8,11と徐々に画質が向上するが、大差はない。風景では深度を考えてF8~F11で撮影することを推奨する。

F16

全面平均化はされているが、明らかにコントラストが低下。回折の影響と思われる。

ポートレートで使用するならばF1.4~F2.8が好印象。風景撮影ではF8~11、スナップで常用するにはF4~F8が適していると思われる。

作例

それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。

今回の作例もレンズの素性を判断していただくためにあえて特別な補正、シャープネス・輪郭強調の設定はしておりません。撮影条件は一般ユーザーの撮影を想定したポートレート、風景スナップに致しました。今回も三次元描写特性が判断できるように、背景映り込み、距離を微妙に変化させて撮影しました。

また、今回はいつもの撮影場所に加えて、面白い光線が差し込む場所を見つけ、そこでも作例撮りを行いました。また、比較的解像感が分かりやすいような洋服、背景を選びました。

作例1

ニコンZ 7+他社アダプター2枚重ね
NIKKOR-S 50mmF1.4
絞り:F1.4開放
シャッタースピード:1/200sec
ISO:100
画質モード:RAW
ホワイトバランス:晴天の日陰
D-ライティング:オート
ピクチャーコントロール:ポートレート
撮影日 2020年1月

作例1は開放絞りF1.4で撮影しています。撮影倍率は-1/30~-1/40倍近傍で撮影しました。若干柔らかさがあるものの、通常のプリント領域では十分なシャープネスを持っています。ボケ味は若干癖があるようですが、ギリギリ2線ボケが発生せず比較的良好なエリアが多いです。

結像した部分は像高の中間部分も周辺も破綻は無い様子が読み取れます。軸上色収差の影響もあり若干ボケに色滲みがあります。しかしこの時代のレンズとしては良好な補正になっていると思います。

総合的に判断するとポートレートには適した描写特性だと感じます。

作例2

ニコンZ 7+他社アダプター2枚重ね
NIKKOR-S 50mmF1.4
絞り:F1.4開放
シャッタースピード:1/800sec
ISO:100
画質モード:RAW
ホワイトバランス:晴天の日陰
D-ライティング:オート
ピクチャーコントロール:ポートレート
撮影日 2020年1月

作例3

ニコンZ 7+他社アダプター2枚重ね
NIKKOR-S 50mmF1.4
絞り:F1.4開放
シャッタースピード:1/1600sec
ISO:100
画質モード:RAW
ホワイトバランス:晴天の日陰
D-ライティング:オート
ピクチャーコントロール:ポートレート
撮影日 2020年1月

作例2、3も開放絞りF1.4で撮影した作例です。少し近づいて、撮影倍率は-1/10~-1/20倍程度です。解像感も適度なコントラストも感じ取れる好ましい画質です。シャープではあるものの固くなりすぎず扱いやすいレンズであることが分かります。シャープネスは十分満足できるレベルであることが分かります。背景が連続的に変化する壁を選びました。細かいものはないですが、良好なボケ描写をしています。

作例4

ニコンZ 7+他社アダプター2枚重ね
NIKKOR-S 50mmF1.4
絞り:F1.4開放
シャッタースピード:1/1600sec
ISO:100
画質モード:RAW
ホワイトバランス:晴天の日陰
D-ライティング:オート
ピクチャーコントロール:ポートレート
撮影日 2020年1月

作例4も開放絞りF1.4で撮影した写真です。いわゆる日の丸構図です。ピント面のシャープネスとボケの連続性を確認するためにこの構図にいたしました。撮影倍率は-1/30~-1/40倍近傍でしょうか。中心部分は非常にシャープに結像していることが分かります。背景が連続的に変化する壁を選びました。ボケ味と3次元的描写特性の判断がしやすいと思います。良好な描写特性であると思います。

作例5

ニコンZ 7+他社アダプター2枚重ね
NIKKOR-S 50mmF1.4
絞り:F1.4開放
シャッタースピード:1/500sec
ISO:100
画質モード:RAW
ホワイトバランス:晴天の日陰
D-ライティング:オート
ピクチャーコントロール:ポートレート
撮影日 2020年1月

作例5も開放絞りF1.4で撮影した至近距離での写真です。ピントはしっかりしており、ボケ味も良好なことが分かります。ゾナータイプではこうはいかないでしょう。近距離収差変動の少なさは、巧みに設計されたガウスタイプの真骨頂です。背景が連続的に変化する場所を選びました。うるさくなりやすい前景背景です。ボケ味と3次元的描写特性の判断がしやすいと思います。二線ボケの発生もなく良好な描写特性であると思います。

作例6

ニコンZ 7+他社アダプター2枚重ね
NIKKOR-S 50mmF1.4
絞り:F1.4開放
シャッタースピード:1/8000sec
ISO:72
画質モード:RAW
ホワイトバランス:晴天の日陰
D-ライティング:オート
ピクチャーコントロール:ポートレート
撮影日 2020年1月

作例6も開放絞りF1.4で撮影した遠景の写真です。ピントはしっかりしており、十分なシャープネスを持っています。開放から安心して使用できることが分かります。

実際の実写では各絞りをまんべんなく撮影していますが、作例としては開放撮影の例を載せました。実際風景等はF5.6~8で撮影することが多いと思われますが、全く問題はありませんでした。このレンズは万能に近い標準レンズであることが分かります。清水名人の処女作が実に完成度の高いニッコールに仕上がっていることに、今更ながら感銘いたしました。清水名人は生まれつきの名人だったのです。才能の違いを感じました。

再生産S3のさらなる復刻

社内がにわかに騒がしくなりました。それは「ついにレンジファインダーニコンS型を復刻するぞ!」という話でした。私はまさにその時F用交換レンズの設計に従事していたのです。職場の上長に確認すると「まだトップシークレットだが、まずS3を復刻する」とのことでした。もうすでに綱島さんにレンズの検討をお願いしているとのこと。そこで綱島さんのところに飛んでいきました。すると5cmF1.4のゾナーを再設計していると言う。私は綱島さんと当時の上司、高橋マネジャーに直談判しました。「5cmF1.4ゾナーは巷にいくらでもあります。顧客が欲しい標準レンズはガウスタイプの幻のレンズ、最後のS型ニッコール50mmF1.4です。どうかこのレンズを復刻させてください。しかも収差補正をオリジナルと寸分たがわぬように今のガラスで置き換えましょう。全く変えてはいけないのです。」と説得しました。するとお二人とも深く納得していただいて、それならいっそのこと佐藤が担当せよという話になりました。喜んだのはつかの間。このプロジェクトは会社の方針で、子会社主導で立ち上げることになりました。ボディは仙台ニコン。レンズは栃木ニコンの設計者が担当します。そこで当時栃木ニコンで光学設計の経験があった藤田氏に白羽の矢が立ちます。藤田氏は入社時から長年ニコン本社の光学部で設計を学んでいました。私もよく知っている旧知の仲間でした。そこで、実設計は藤田氏にお願いして、私は収差補正バランス、描写特性を確認し責任を持つ立場を仰せつかりました。硝材は最新のものを用いて収差補正は完璧にオリジナルを模倣しました。しかしコーティングだけは最新の多層膜コートを施しました。それは、ゴーストやフレアーはレンズの味とは言えない、という私の持論から行った改良です。これで完璧に復刻出来たと思っていました。

ところが一本の電話が鳴り響きます。栃木の藤田さんからです。「佐藤さん、設計値通り、図面通り作ったら、近距離でピントが来ません。どうしましょう。」というのです。そこで色々調べた結果、繰り出し量を調整することで解決することが分かったのです。繰り出量を調整するために焦点距離を51.6mmから約52mmにすれば良い。焦点距離の変更は再設計を意味します。私は一瞬背筋か凍りました。しかし、藤田さんは「最終レンズの曲率半径をほんの少し変えれば収差変動することなく焦点距離を52mmに変更できます。」と言うのです。私はここである事を思い出しました。昔清水名人から聞いた話を。「昔、一本目の仕事(光学設計)の時、あせったよ。51.6mmで設計したレンズがS型の距離計でピントが合わず、試作途中で最終レンズのR(曲率半径)を少しいじって52mmにして合わせたんだよ。」そうです、まさに同じ道を辿っていました。こんなことまで復刻してしまったのです。皮肉なものです。S型カメラのような内爪方式はカメラ側に繰り出し機構があります。全体繰り出しの場合、繰り出し量は焦点距離で決まります。しかしゾナーの5cmF1.4も焦点距離は51.6mmのはずです。それではなぜ50mmF1.4ガウスを52mmにしなければならなかったのでしょうか。それは近距離の残存収差の影響です。ゾナーは近距離収差変動が大きいのです。そのゾナーに合わせて距離計を調整してあるので、近距離変動の少ないガウスタイプでは過剰補正になってしまったと考えられます。その帳尻合わせが、微妙に焦点距離を伸ばすことだったのです。S3はブラックS3として一度復刻され、さらに我々の手で再復刻されました。この時、オリジナルを製造していた当時に設計製造にかかわっていた大先輩を工場にお呼びして、若い技術者に技術伝承していただきました。これはニコンにとって非常に有益なことでした。そしてついに弊社はレンジファインダーカメラの最高峰、ニコンSPの復刻に向かいます。もちろんレンズの選定、設計は栃木の藤田氏と佐藤のコンビでした。そして次の復刻レンズは、東さんの銘レンズ3.5cmF1.8に決定したのです。

ニコンイメージングプレミアム会員
ニコンイメージング会員