標準マイクロレンズの進化
AI AF Micro Nikkor 60mm F2.8S
今夜は第七十二夜の続きで、AF105mmマイクロと同時期に開発された標準系のマイクロレンズAI AF Micro Nikkor 60mm F2.8Sをとりあげよう。
大下孝一
マニュアルフォーカスのAi Micro Nikkor 55mm F2.8Sまでのマイクロレンズの開発については、佐藤さんが第二十五夜、二十六夜で紹介しているので、それ以降のAF化の流れから説明することにしよう。
1986年発売のF501企画段階から、AFのマイクロレンズも同時期に発売することが決定されていた。しかも最大撮影倍率を、1倍(等倍)まで拡大することが至上命題であったことは第七十二夜でお話した通りである。発売まであまり時間のない中で、当時マイクロレンズ担当であった濱西芳徳さんは、いちからレンズ設計をやり直し試作検証をする時間がないと考え、既存のAi Micro Nikkor 55mm F2.8Sの光学系を流用して、フローティング機構の改良で等倍撮影ができないか検討にとりかかることにした。この時、収差補正以外に濱西さんを悩ませていた課題が2つあった。その1つが第七十二夜でお話したレンズの繰出し量である。従来1/2倍までだったレンズを等倍まで繰り出すわけなので、単純に考えてもマニュアルフォーカスのレンズに比べ2倍の繰出し量が必要となる。繰出し量が大きければその分AFのスピードは遅くなる。
そしてもう1つの課題が、等倍まで繰り出してAFでピント合わせができるのか?ということである。全体繰出しのレンズの場合、被写体と撮像面までの距離(=撮影距離)はレンズを等倍まで繰り出した時最小となり、等倍以上に繰り出してピントを合わせるには、被写体から撮像面を離さなければならないという不思議な性質がある。一方、オートフォーカスを行う上では、無限遠から至近まで撮影距離が漸次小さくなってゆくことが要請される。それは、自分がカメラをもって撮影している姿を思い浮かべればわかるだろう。カメラを三脚に固定して被写体とカメラの距離(=撮影距離)をフィックスする。この状態でシャッターボタンを半押ししてAFを動作させる。そしてもっと被写体を拡大したいと思えば、カメラを少し被写体に接近させることを自然に行っている。フォーカスにフローティングを使うと、撮影距離によってレンズの焦点距離や諸元が変化してゆく。これをうまくコントロールしながら、等倍まで常に撮影距離が小さくなるようにフォーカスを設計しなければならない。
この2つの課題を考慮した上で、最大限性能を発揮するよう設計されたのがAI AF Micro Nikkor 55mm F2.8Sなのである。
F501の発売から少し遅れて1986年末に発売されたAF55mmだが、改善項目が残されていた。1つはレンズの繰出し量である。これは全体繰出しとフローティングを基本としたレンズタイプなので如何ともしがたく、1群の繰出し量は60mm以上もあった。当然マクロ域のAF速度も遅い。そして性能面でも、フローティング軌道の設計だけで1/2倍から等倍の延長を行ったため、マクロ域の周辺性能も濱西さんの理想とするレベルには至らなかった。球面収差や色収差の補正は良好で、画面中心部から中間域の性能は良いのだが、画面四隅の非点収差と像面湾曲の変動が補正しきれなかったのである。それは、繰出し量を極力短縮することと、無限遠から等倍まで常に撮影距離を小さくするという、上にあげた2つの制約のため、理想とするフローティング軌道からずらさなければならなかったためである。
やれるだけのことは出し切ったという達成感はあったが、濱西さんの中には忸怩たる想いは残っただろう。
改良の機会はすぐ訪れた。F501と同時に発売されたAF Nikkorレンズは、MFリングが細く操作性が悪いという声が多く寄せられ、外観をリニューアルすることになった。この時標準マイクロレンズは、105mmマイクロレンズの発売にあわせ、外観変更と同時に光学系を一新することになったのである。
早速濱西さんは、第七十二夜に紹介したマイクロ105mm担当の守山さんと設計に取り掛かった。この時、設計のイメージは濱西さんの頭の中にできていた。AI Micro Nikkor 105mmと同様に、ガウスタイプの後方にテレコンバーターを配置し、繰出し量の短縮を図ること。そして、増加した設計自由度を使って、近距離性能を向上させることであった。ただこれには課題もあった。1つはバックフォーカスの制約である。焦点距離105mmであれば、ガウスのタイプのレンズと像面の間にテレコンバーターを配置するスペースを確保することは容易だが、標準系レンズでは困難が予想される。設計してみると、やはり55mmの焦点距離ではバックフォーカスの確保と性能の両立ができそうになかった。そこで濱西さんは60mmまで焦点距離を伸ばすことを決断したのである。
しかしこれで解決できたわけではない。もう1つの課題はテレコンバーターによるマスターレンズの収差拡大である。テレコンバーターは、レンズの繰出し量を抑えたり、性能を高める自由度を増やしてくれる良い面もあるが、原理的にマスターレンズの収差を拡大する性質がある。濱西さんは、テレコンバーターの倍率やマスターレンズの繰出しの軌道をいじりながら、繰出し量が小さく、かつ性能が最良になる構成を探索し、ついに到達したのが図1の構成であった。
図1が、AI AF Micro Nikkor 60mm F2.8Sのレンズの断面図である。5群6枚構成の変形ガウスタイプの後方に2枚構成のテレコンバーターを配置した構成で、絞りより前側の3枚、絞り後方の3枚が独立に移動することにより、無限遠から最至近・等倍までのフォーカスを行う。このガウスタイプの後方にテレコンバーターを付加する構成をとることで、AI AF Micro Nikkor 55mm f/2.8Sに比べ、繰出し量を大幅に削減している。また、鏡筒機構も大変凝ったもので、写真1(レンズの無限遠状態)と写真2(至近状態)のように、外筒の内側に2つの内筒を設けることで、マイクロレンズに必要な大きな繰出し量を稼ぎながら、至近の状態でもスマートな外観を生み出している。この鏡筒機構は、鏡筒設計者、吹野邦博(ふきの くにひろ)さんによるもので、当時若手だった私は、このたけのこの成長を思わせる繰出しに「かっこいいなぁ」と見惚れたものであった。その後、コンパクトカメラのズームレンズで当たり前のように使われるようになった多重筒による繰出し機構だが、当時はあまりない斬新なメカであった。
それではいつものように実写でレンズの描写をみてゆこう。今回もフルサイズミラーレスカメラZ 6にマウントアダプター FTZを装着して撮影を行った。
作例1は、夏から秋に移り変わる南天の星野写真で、都市光のあるところで撮影した写真なので、ハイコントラスト現像を行い、同じ構図の39枚の画像をコンポジット合成してノイズ低減を行なっている。右下の明るい星がわし座のアルタイル、中央にひし形の小さな星座のいるか座、その左にはこうま座、画面右中央にはや座、右上にはこぎつね座が写っている。画面右側が白っぽくなっているのは天の川で、ちょうど中央のいるか座のあたりから星の数が減って、秋の星空に移り変わっている様子がわかるだろう。
このレンズは、絞り開放では画面中央でわずかに軸上色収差、画面周辺ではわずかなサジタルコマフレアがあるが、F4まで絞ればこの作例の通りごく四隅を除き画面全域で非常にシャープな画像が得られる。特に中心付近の星像のシャープさが良好で、画像を等倍拡大すれば、M15やM27、M71など比較的大きな星雲星団の形状もわかるほどである。一方画面のごく四隅の星像は三角形に変形し肥大しており、このレンズの少ない欠点の1つである。一方周辺光量は無限遠から等倍の至近に至るまで非常に豊富で、55mmマイクロから改良されたポイントの一つである。この作例1でもフラット補正の必要は感じなかったし、以下に示す開放の作例からも周辺光量の豊富さが見てとれるだろう。
作例2は、F8まで絞り込んで撮影した紅葉である。F8まで絞り込むと画面の隅々までシャープな描写であるが、背景はわずかにぼけている。60mmは50mmに比べて焦点距離分深度が浅いことを頭に入れて撮影に臨みたい。
作例3は開放でのコスモスの写真である。ピントの合った花芯から花びらがなめらかにぼけていることがわかる。ただ、画面下側の中距離のぼけに少しエッジがみられる。この作例はコントラストの低い日陰で撮影しているので目立たないが、晴天下では茎や細かい葉のエッジに光があたり、ぼけがうるさく感じることがあると思う。
作例4は、F5.6まで絞って撮影したカエデのアップである。絞り込んでいるので、作例3に見られたボケの縁取りが解消されている。ただ7角形の絞り形状が目立っており、明暗差のはっきりした背景の場合気になることがあるかもしれない。一方ピントの合った部分の線の細いしっとりした描写は、このレンズの特筆すべき長所の一つである。
作例5は、このレンズの最至近である等倍で撮影した、めのう板の中心部である。この作例は開放で撮影したものだが、画面周辺に至るまで結晶の微細な構造が描写されている。子細にみるとわずかに色にじみ(=軸上色収差)が感じられるが、解像感に影響を与えていない。なお、画面中心部の結晶に見られる黄色のエッジは結晶自体のもので収差によるものではない。
等倍撮影時のピントや被写体とカメラのセッティングのシビアさは第七十二夜でも紹介したが、このような平面的な被写体を撮影する上でのコツは、スクエアリング=被写体面と撮像面の平行度を出すということである。簡単な方法は鏡を使うやりかたである。図2のように被写体に密着させて鏡を置く。カメラのファインダーを覗くと鏡に映ったカメラとレンズが見えるが、ファインダーの中心にレンズの中心がくるように、カメラの角度と位置を調整し固定する。そして鏡をそっと外せばスクエアリングの調整が完了である。この方法は各種光学装置の調整にも使われているやりかたで、鏡さえあれば比較的高精度にセッティングできるので、機会があればお試しいただきたい。
最後の作例6は、等倍開放でのシクラメンの花の写真である。ピントの合っている雄しべ雌しべはシャープな描写だが、花びらや背景はなめらかにとろけるようにぼけている。第七十二夜でもお話したが、等倍での被写界深度は、(錯乱円径)x(F値)なのでレンズの焦点距離によらず同じなのだが、背景のボケ量は焦点距離に依存するので、105mmに比べるとボケた部分の輪郭はわりあいはっきりしている。標準系マイクロと望遠系マイクロの両方をお持ちの方は、その描写の違いも確かめてみてほしい。私も愛用のAI AF Zoom Micro Nikkor 70-180mm F4.5-5.6D含め撮り比べてみたが、花が密集してたくさんつくシクラメンには60mmの画角が適していると感じた。
AI AF Micro Nikkor 105mm F2.8 Sに先行して1989年に発売されたこのレンズは、その後1993年に絶対距離エンコーダを備えたAI AF Micro Nikkor 60mm F2.8 Dにモデルチェンジされ、標準系マイクロレンズの新定番として愛用されることとなった。そして、2008年にこのレンズの改良版であるAF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G EDが発売されたあとも、2020年の現在に至るまで30年以上継続販売されているロングセラー商品となっている。AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G EDは、非球面2枚とEDレンズを搭載し、軸上色収差や近距離での球面収差やコマ収差を格段に改善しており、今新たにマイクロレンズを購入されるなら、この新製品をお勧めしたいところだが、いまだに並行生産されているのは根強いファンがいるということだろう。その魅力は、一つに豊富な周辺光量に裏打ちされた素直な描写が挙げられるが、私は密かに、等倍に繰り出した時のメカニカルな美しさにあるのではないかと思っているのだが、いかがだろうか?