真実を解き明かせ。医療・学術研究の強い味方
Medical-NIKKOR 120mmF4(IF)
第六十九夜では医学界からのご要望で商品化されたMedical-NIKKOR 120mmF4(IF)を取り上げます。メディカルニッコールとしては2代目のこのレンズは、ある意味完成されたマクロニッコールの姿なのかもしれません。今夜はMedical-NIKKOR 120mmF4(IF)の隠された秘話を探ります。
佐藤治夫
まずはメディカルニッコール誕生について調べていきましょう。当時のニコンにおいて、医療関係の光学機器を扱っていたのは機器事業部でした。当時の機器事業部は顕微鏡等の光学機器によって、医学界とのつながりが深く多数のご要望を承っておりました。その状況下で「簡単にしかも正確に手術の記録、研究の記録ができるマクロレンズが必要」と言う判断がなされました。また、腔内鏡の用途だけではなく口内鏡としても使えるマクロレンズ。そんな発想から初代メディカルニッコール200mm F5.6の開発が始まります。まずは1962年(昭和37年)1月に試作図面が出図されます。そして同年1962年5月から量産開始、そして同年1962年12月に発売されました。1962年といえば、まだ43-86mmズームの発売前、ニコンFの発売から3年目のことでした。このレンズもFマウントシステムの一員としては非常に早い時期から構想・設計されたことになります。また、メディカルニッコール200mm F5.6は大きく分けて2回マイナーチェンジをしています。まずは初期型、そして1972年に操作性改良のため外観変更をします。その後1974年にコーティングをマルチコート化します。そしてその後メディカルニッコール120mm F4(IF)と世代交代するのです。
それでは今回の主役、メディカルニッコール120mm F4(IF)の開発履歴を見ていきましょう。光学設計をされたのは当時光学部に所属されていた飯塚豊氏でした。設計開始は明確には記載がありませんが1978~1979年であろうかと思われます。記録では1979年に焦点距離を105mm から120mm に変更して試作図面が提出されています。はじめは105mm だったのです。なぜ120mm なのか。当時は不思議な焦点距離だったに違いありません。設計者ご本人にうかがったところ「正確な記憶ではないが、おそらく最適なワーキングディスタンスのため」とおっしゃっていました。手術室での使い勝手を最優先に考え、一度設計したレンズを根幹から変更したのです。そしてメディカルニッコール120mm F4(IF) の待望の発売は1981年12月、年越しの迫った師走のことでした。
第二十五夜でも書きましたが、写真用語としての「マイクロ」と「マクロ」には明確な違いがありました。マイクロ撮影は縮小撮影。マクロ撮影は等倍(1:1)またはそれ以上の撮影を指していました。したがって、ニッコール初の近接撮影用レンズは「マイクロ」ニッコールなのです。それでは、今回取り上げたメディカルニッコールはいかがでしょうか。撮影倍率はアタッチメントを使用することで、等倍を越えて拡大倍率2倍まで撮影可能です。そうです、マイクロ領域を越えマクロ領域を撮影できるのです。一方、冠に掲げたメディカルの文字には医療・医学の助けになりたいと言う強い思いが込められていました。もしこの大意ある 医療用ニッコールに別名を付けることが許されるのであれば、私はこのレンズにこそマクロニッコールという別名を付けたいと思います。
それではメディカルニッコール120mmF4(IF)の断面図(図1)をご覧ください。少々難しいお話をしますがご容赦ください。
飯塚さんの設計されたレンズは非常にユニークなレンズタイプでした。図1の最も物体側にあるのは、撮影倍率2倍まで撮影可能にする専用アタッチメントレンズです。これは脱着可能な色消しダブレットで、いわゆるクローズアップレンズです。その後方にはオリジナリティ溢れるメディカルニッコール本体があります。レンズ構成は凸凹凸の3群構成。望遠ズームに見えた方は、実は鋭い。この構成こそが、飯塚さんの新しいマクロレンズタイプの発明だったのです。実はズームレンズのバリエーターが変倍することと、フォーカシングにより変倍することは「像倍率を変化させる」と言う物理的意味においては近しいものなのです。しかし、根本的に異なることは物体と像の間の長さが変化するか否かということです。ズームレンズでコンペンゼート(像点補償)しなければ物像間距離は変化し、その働きの延長で変倍は合焦(フォーカシング)に変化するのです。飯塚さんは望遠ズームのズーミングをフォーカシングに変化させ、ユニークなマクロレンズを完成させたのです。私は直接このレンズ開発秘話を飯塚さんにお聞きしました。すると、この仕事を受ける寸前まで望遠ズームを設計していたらしいのです。飯塚さんの頭の中は、望遠ズームをいかに高性能化するか、という思いでいっぱいだったに違いありません。そんな環境で、このメディカルニッコールの設計に着手したのです。飯塚さんはひらめきました。テレズームのマスターレンズの構成を少し変更し、超望遠のインナーフォーカス方式の様に凹群で合焦すれば良い。その発想は見事に実を結んだのです。
メディカルニッコール120mmF4(IF)の使い方は少々コツが必要です。一般のレンズとの大きな違いは、レンズ先端に設置してあるスピードライトの発光が撮影の前提になっていることです。このスピードライトのガイドナンバーは一定の値に固定されています。したがって、同一ISO感度下では撮影倍率(撮影距離)によって絞り値が一意的に決まってしまいます。このレンズの撮影範囲はアタッチメントなしで1/11倍(R=1.6m)~等倍(R=0.35m)まで撮影できます。しかし、1/11倍時は絞りがF4に固定され、等倍(1倍)時はF32に固定されています。また、0.8~2倍アタッチメントを取り付けるとF値はF32に固定されてしまいます。そして画面内に撮影倍率を写し込むための小さな光学系がマウント近くに置かれています。また、私は試写の際に、思った以上にワーキングディスタンスがあることに驚きました。なぜこんなにワーキングディスタンスを長くしたのでしょう。それは初代メディカルニッコールの取扱説明書を見てただちに理解できました。手術中の撮影を考慮し、執刀医たちの邪魔にならない位置からの撮影を念頭においていたのです。まさに顧客に最も近い位置で開発。私達が最も忘れてはならない心がけです。また、今回は電源を入手できなかったこともあり、スピードライトなしで撮影に挑みました。デジタルカメラで用いる場合、シャッタースピードとISO感度を使って露出を調整する必要があります。今となっては、使い方に制限が多いレンズですが、それでも魅力的なマクロレンズには違いありません。
設計値を一目見て気がつくことは、全域にわたって歪曲が少ないことです。これはアタッチメントを付けた時も変わらず全域±1%以下に収まっています。また、色収差、特に倍率色収差が全域良く補正されています。これは、この光学系が低倍率撮影以外では絞り込まれて使用されるため、絞により改善されない収差を極力抑える設計になっているものと思われます。1/11倍近傍では球面収差、軸上色収差も良好に抑えられています。像面湾曲は低倍率撮影時では補正不足の傾向があり、高倍率撮影時でほぼきれいに補正されます。次にスポットダイヤグラムを観察してみましょう。低倍率撮影時はまとまりが良く、後ボケがきれいになる傾向があります。高倍率撮影になるにしたがって、コマ収差が発生して点像が悪化します。しかし、実際はF11~F32に絞って使用するため、大きな問題は発生しません。MTFも同様です。低倍率時は10、20本/mmのMTFは安定して良好な値を示します。また、高倍率撮影時やアタッチメントレンズ装着時では5~10本/mmのMTFを基準に考えても十分なシャープネスを感じられます。しかもF32まで絞ってしまうので、幾何光学的な収差はあまり考える必要が無くなります。しかし、特に近年のデジタルカメラで使用する場合は回折の影響で著しく画質を低下させる懸念があります。
次に各撮影倍率における二次元チャートの実写結果を見ていきましょう。前記した通り、F値は距離に固定です。評価については個人的な主観によるものです。参考意見としてご覧ください。
1/11倍近傍(F4)
解像力は割合あるが、若干量ではあるが全体に色収差が確認できる。周辺では色ずれが増す。コントラストが若干低め。スピードライトの順光発光ではコントラストが強い写真になりがちである。しかし、この点このレンズの場合、光学系で少しコントラストの低下が発生しているため相殺されてちょうど良いトーンになることが確認できた。設計時の狙いであったかどうかは不明だが、この時代に設計的考慮があったとすると驚愕。
1/8倍近傍(F5.6)
コントラストが向上、色収差も改善、発色は最小に抑えられている。解像力も向上。
1/4倍近傍(F11)
コントラストが向上、色収差の影響も認められない。解像力は若干下がる。
1/2倍近傍(F11)
解像力、コントラストとも十分である。色ずれ等の発生もほとんど解消。
1/1倍近傍(F32)
コントラストは良好。色ずれ等の発生もほとんど解消。しかし回折の影響か、像が鈍って解像力が悪くなった。
以下アタッチメントレンズ使用時
1/0.8倍近傍(F32)
コントラストは良好。しかし回折の影響か、像が鈍って解像力が若干悪い。
1.5倍近傍(F32)
中心付近は解像も割合あるが、周辺で低下。色ずれは無い。しかし回折の影響か、像が鈍って解像力が若干悪い。
2倍近傍(F32)
色ずれは無いが、シャープネス低下。周辺の解像が悪くなった。コントラストも低め。
それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。
今回の作例もレンズの素性を判断していただくためにあえて特別なシャープネス・輪郭強調の設定はしておりません。カメラの撮って出しに近い状態です。また、今回の作例はあえてスピードライトを使わずに撮影しています。しかしながら、試験後の一般実写では画質に対するストレスはありませんでした。
作例1は撮影倍率1/5倍、絞り開放F8、自然光時の作例です。このレンズの撮影範囲の中では、比較的低倍率で撮影しています。光源が無いためマニュアル撮影です。試行錯誤の末、結局ISO100・1/250secという条件で落ち着きました。ピントは鮮明ですがコントラストは若干低めでした。太陽の直接光で撮影したのですが、結果的にはコントラストがきつすぎず、逆に好感持てました。ボケ味は素直で良好です。二線ボケ誘発被写体が多い中、難なく良好なボケを再生しています。
作例2は撮影倍率1/1.5倍、絞り開放F22の時の作例です。このレンズは撮影倍率で絞りが決ってしまうので、組み込みストロボなしの撮影は正直苦労します。シャープネスは十分ですが、回折の影響で解像が落ちているのがなんとも残念です。コントラストは強い自然光の中、ちょうど良い圧縮を生み出しています。やはりボケ味も良好です。今回の撮影の様に特に深度の狭い近距離撮影では、全画面のピントの合っている範囲は全画面の数百分の1かそれ以下もないです。したがって、ピントの面のシャープネスは重要ですが、それ以上に三次元的な描写性能(描写特性)が重要です。その意味でもこのレンズは良好な部類に入ると思われます。
作例3は等倍(1:1)(アタッチメントレンズ有)、絞りF32 の時の作例です。柔らかい光の室内光で撮影しています。ISOは1600で若干ザラツキが発生しています。シャープネスは十分ですが、やはり回折の影響で解像が落ちているのがなんとも残念です。コントラストは若干低めですが、この被写体にはベストマッチでした。やはりボケ味も良好です。
作例4は2倍(アタッチメントレンズあり)、絞りF32の時の作例です。ビー玉に写り込んだ陰影、葉の葉脈を見れば、このレンズのシャープネスは実用に耐えていることが分かります。しかし、何度も言いますがF32では幾何収差云々の話はほぼ無意味です。回折の影響が大きく解像感が損ねられてしまいます。重ね重ね残念です。
飯塚豊さんは、私が入社後初めて配属した、光学部開発課の大先輩でした。私の第一印象は非常にスリムな方で、気さくで明るく豪快に笑う方でした。飯塚さんは色々な光学系の設計をされていました。その中でも大下さんが四十二夜でふれている、Eシリーズ75-150mmF3.5の設計に代表されるズームレンズの設計を得意とされていました。そういえば、どことなくメディカルニッコール120mm F4(IF)のレンズ配置がEシリーズ75-150mmF3.5に似ていますね。中村さんの発明であるアフォーカルズームの最良なレンズ配置は濱西さんと飯塚さんが完成させたように思えます。それほどズームレンズを熟知していた方なのです。私が初めて配属になった光学部開発課におられた方々には縁が深く、私は今の今までお世話になってきました。今思い起こせば、飯塚さんとは短い間しか一緒の職場にいられませんでした。しかし、飯塚さんには光学設計の根幹である近軸理論と変化表の読み進め方を教わりました。その教えは、今の私の基礎知識の一部になっています。退職後、飯塚さんはご自分で光学設計の会社を作られて仕事をされているとのことです。いつまでも光学設計を通じて業界の活性化をしていただきたいと思います。