無音合焦を目指せ!大口径望遠ズームレンズの開発秘話
AI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)
第六十七夜はAF-Sの称号を初めて授かったSWM(超音波モータ)駆動方式大口径望遠ズームレンズ、AI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)を取り上げます。時は銀塩フィルム全盛の時代。デジタル化への夜明け前の混沌とした時代でした。しかし、すでにこの時期にデジタル対応を見据えた大口径望遠ズームレンズが発売されていたのです。今夜はそんなAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)の隠された秘話を探ります。
佐藤治夫
まずはAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)の変遷を追ってみましょう。AI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)が発売されたのは1998年12月。師走の慌ただしい中で産声を上げました。社内では、この時すでに1999年発売予定の新たなデジタルカメラD1の開発が進んでいました。無論このレンズも、デジタル画質に対応すべく設けられた、新たな設計基準に準拠したレンズに仕上がっていました。
80-200mm F2.8の歴史は長く、元は1982年発売の濱西氏設計の初代Ai Zoom Nikkor ED 80-200mm F2.8Sから始まります。その後1988年、AF化と共に小型化してAi AF Zoom Nikkor ED 80-200mm F2.8Sが登場します。この設計は息が長く、基本的に光学系を変えず1996年基本的に光学系を変えず1996年AI AF Zoom-Nikkor 80-200mm f/2.8D ED <NEW>まで、長きにわたってボディー内モーター駆動AFの時代が続きました。そして、ついに1998年12月にニコン初のSWM付大口径望遠レンズとしてAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)が発売されたのです。そして2003年、変倍比拡大、防振機構(VR)の導入、更なる小径化を実現したAF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF)が発売され、その役目を終えます。約5年間の発売期間でした。
AI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)の光学系を設計したのは、私や大下氏と同年代、もう一人の佐藤「天才佐藤」こと、佐藤進(さとうすすむ)氏です。進氏は職場の仲間でもあり、今も信頼のおける友人の一人です。彼は元々大下氏と同じ天文ファンです。したがって光学設計にも独特の設計思想を持っていました。彼の設計したレンズの一例をあげると、本レンズ以外にAF-Iの300,400,500mm、AF-Sの300,400,500,600mm、そして200-400mm、1200-1700mmズームと、銀塩時代のAF超望遠を一手に設計していたことがわかります。彼は特に望遠ズームレンズや超望遠を担当することが多かったのですが、デジタル時代を予感するもっと前に軸上色収差の補正に革新をもたらしました。AIからAFに変わったころ、ニッコールの大口径望遠レンズは大きく変わったのです。それは過剰なまでに完璧な色収差補正。彼の誓いは「新設計レンズにテレコンバーターを付けた時の性能、色収差は、その時代の同焦点距離レンズ(テレコンバーターで増した焦点距離のレンズ)よりも必ず向上させる」というものでした。たとえば新しく300mm F2.8を設計するとします。その新設計レンズに2倍テレコンバーターを付けた性能、色収差が、現行品の単体600mm F4よりも必ず良くなければならないのです。2倍のテレコンバーターは軸上色収差を4倍にします。ということは、初めに単体レンズの軸上色収差を現行品の1/4にしなければならないのです。簡単に1/4と言いましたが、凡人なら気が遠くなりそうな目標です。きっと進氏はレンズタイプや構成、使用硝材の選定を一から緻密に考え直したに違いありません。テレコンバーターによる性能劣化分を、単体レンズの高性能化で完璧にカヴァーしようというのです。単体レンズとしては過剰品質とも思えるほどの高性能化。それは自ら課した重い重い十字架でした。しかし彼は立派にやり通しました。それこそが、彼の天才たる由縁です。その設計思想は今日、望遠、超望遠ニッコールの礎になっています。
それではAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)の開発履歴を見ていきましょう。設計開始は1997年の春、設計完了は1997年9月。残暑激しき頃でした。待ってました、とばかりに試作が開始されます。その後、量産試作の開始が1998年2月。真冬のさなか、栃木で開始します。そして満を持して発売されたのが1998年12月。年も押し迫った師走の事でした。
AI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)の断面図(図1)をご覧ください。少々難しいお話をしますがご容赦ください。このレンズのレンズタイプは、テレズームの王道、正負正正(凸凹凸凸)4群アフォーカルズームレンズです。そもそも大口径望遠ズームレンズの定番は、中村氏の大発明、正負正正(凸凹凸凸)のアフォーカルズームタイプのレンズなのです。(第四十二・六十一夜参照方)。社の内外、国の内外を問わずこのズームレンズタイプが一世風靡しました。このレンズが一般的なアフォーカルズームから進化した所は、1群内を前後群で分割し、後群で合焦をしているところです。所謂内焦(インナーフォーカス)化したわけです。SWM(超音波モータ)採用の必然性と全長変化を嫌うプロ仕様の結果ともいえるでしょう。残念ながら創成期のSWMは思ったより非力でした。したがって、合焦群には大きな制約が課せられたのです。まず、重量制限。次に移動量の制限。続いて外径制限。ここまで手足をもぎ取られると、普通の光学設計者ならもがき様もありません。しかし、佐藤進先生はいつものポーカーフェイスで、スルッとクリヤーしました。当時我々は、創成期の円環SWMをもじって「孫悟空の輪っか(緊箍児)」と呼んでいました。光学設計者にとって、それほど厄介なものだったのです。
レンズ構成図に話を戻しましょう。1群後方(像側)にヴァリエータVとコンペンセータCが配置されているのが分かります。そして、その後方(像側)に4群(マスターレンズ)があります。アフォーカルズームは難しいようで、実は至極簡単に理解できるのです。まず、マスターレンズが普通にカメラについている標準レンズとします。その前に安価なガリレオ式(凸凹)望遠鏡が付いた状態がテレの状態と考えられます。ではワイド側はどう考えれば良いのでしょう。それは、ちょうどガリレオ式望遠鏡を逆さに付けた状態と考えられるのです。要は標準レンズの前に凹凸の逆ガリレオ式アフォーカルコンバーターがついているわけです。皆さんは、子供のころ安物の双眼鏡を前後逆さに覗いて、像が小さくなることを喜んだ経験はありませんか。まさにその状態なのです。実際のレンズではワイド側はヴァリエータVが前方(物体側)にあります。1群に接近するわけです。そこで1群の凸のパワーに打ち勝って、1群+ヴァリエータVの合成で凹のパワーになると考えたらわかりやすいですね。レトロフォーカスの様な凹凸構造です。そしてテレ側では、そのヴァリエータVが移動して像側に来る。そうすると正真正銘の凸凹のテレフォトタイプになるわけです。ヴァリエータが移動するとピント面も動いていきます。その動いてしまうピント面を不変にするためにコンペンセータCが非線形に動くのです。コンペンセータCの移動は主に変倍のためではなく、ピント面を一定に保つための移動なのです。コンペンセータCはまさにピント位置を「補償」するレンズ群なのです。
さて、それではAI AF-S Zoom Nikkor ED 80~200mm F2.8D(IF)の収差的な特徴を見ていきましょう。まずは、広角端の80mm時から見ていきましょう。
まず初めに気が付くことは球面収差と各色収差の補正が良好なことです。球面収差はわずかにアンダーコレクションになっています。そして、軸色収差もアポクロマート色消しになっていて、丁寧な収差設計を施されていることが分かります。また、コマ収差もほとんど抑えられていて、点像を丸くする設計思想が読み取れます。若干像面湾曲がプラスに傾いていますが、これは近距離性能と無限遠性能とのバランスを取った結果であると思われます。歪曲は-3.6%とテレズームとしては標準的な値です。次に中間焦点距離の135mmの収差を見てみましょう。球面収差は若干オーバーコレクションになっています。驚くことに軸上色収差、倍率色収差が広角端と比較して、ほぼ1ケタ小さくなります。コマ収差もほとんど抑え込まれています。像面湾曲は像高8.5割まではほぼ完璧に補正されていますが、8.5割を超えると徐々にマイナスに変位します。歪曲収差もほぼ完璧に補正されていて、最大でも0.3%に収まっています。最後に望遠端200mmの収差を見てみましょう。無限遠では球面収差は±0.01mm以内で非常に少なく、非常比高いシャープネスが期待できます。それが近距離で徐々にマイナスに変位していきます。軸上色収差や倍率色収差も200mmとは思えない収差値です。歪曲は+1.7%と望遠ズームレンズとしては良好です。欠点としては見かけ上の像面湾曲が高像高で大きくマイナスに変位している点でしょう。しかし、これは片絞りになっていることが大きな原因です。小型化のために犠牲になった点だと言えるでしょう。
次に点像の状態を観察すると、このレンズも比較的どの焦点距離で同様の傾向を示します。像高7~8割までは点像再現性が高く、まさに「点が点に写る」レンズに仕上がっています。しかし、最周辺は像面湾曲の影響でメリジオナル方向に伸びた点像になります。
それではMTFを観察しましょう。各焦点距離域で10、30本/mmのコントラストは単焦点を凌いだ性能です。特に中心から面積70%の領域では非常に良好で50本/mmでも充分なコントラストがあります。
このレンズは、収差、点像、MTFの各設計値から非常にヌケの良いレンズであることが読み取れました。
次に遠景実写結果を見ていきましょう。各絞り別に箇条書きにいたします。評価については個人的な主観によるものです。参考意見としてご覧ください。
F2.8開放
センターはシャープで、さほどフレアーも感じない。中心から中間部までは描写の変化が少なく高精細。周辺部分で若干シャープネスが低下するが、低下と言っても等倍拡大で認識できる程度。画面全体に比較的均一な解像感がある。最周辺では若干画質の低下があるが、不自然な流れなどは発生していない。色にじみは非常に少ない。
F4~5.6
F4に絞り込むことによって、センターはさらにシャープになり、コントラストも上昇。最周辺はあまり変化しない。F5.6で周辺までシャープネスが向上。
F8~11
F8で画面全体が均一な描写になる。解像力は増す。F8が最も画質的には良い。F11では若干コントラストが低下し始める。回折の影響が表れ始めていると考えられる。
F16~22
画面全体がさらに均一な描写になるが解像感低下。回折の影響で解像感を若干損ねる。
F2.8開放
センターはプラスの球面収差のせいか若干フレアーがある。しかし解像力はある。端の端まで均一で安定した画質。色にじみも感じさせない。
F4~5.6
F4に絞り込むことによって、フレアーが少なくなり、コントラストが上昇。ごく端を除いて高精細な画像に化ける。F5.6ではさらにシャープネスが向上する。画質の傾向は同様。
F8~11
画面全体が均一な描写になる。コントラストがさらに向上。F11が全絞り中最も良い画質。風景写真にはF11が好ましい。
F16~22
画面全体がさらに均一な描写になるが解像感低下。回折の影響で解像感を若干損ねる。
F2.8開放
センターは若干フレアーがあるものの適度なコントラストと解像力がある。端まで均一で安定した画質。ごく端で画質低下が発生する。色にじみは感じさせない。
F4~5.6
F4に絞り込むことによって解像感が増す。F5.6で最周辺まで均一な描写になる。
F8~11
F8でさらにシャープになる感じ。画面全体が均一な描写になる。特にコントラストが大幅に向上。F11が全絞り中最も良い画質。風景写真にはF11が好ましい。
F16~22
画面全体がさらに均一な描写になるが解像感低下。回折の影響で解像感を若干損ねる。
どのポジションにおいても、シャープネスを期待するならF8~11の絞りで使用すると良好な結果を得られるでしょう。また、ポートレートで使用するならF2.8で使いたいところです。
それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。
今回の作例もレンズの素性を判断していただくためにあえて特別な倍率色収差補正、軸上色収差補正とヴィネッティング補正、シャープネス・輪郭強調の設定はしておりません。
作例1は広角端80mmで絞り開放F2.8の時の作例です。顔や髪の毛、洋服などを見ると、心地良い適度なシャープネスを持っていることが分かります。ボケ味も素直で問題ありません。
作例2は100mm近傍、開放F2.8で撮影した作例です。シャープネスは十分で、髪の毛やコートの繊維が良く再現されています。ボケも素直で好感が持てます。発色も良く色収差の少なさが感じられます。
作例3は135mm近傍、開放F2.8時の作例です。このレンズはズーミングによる描写の差が少なく、安定したシャープネスを持っています。やはりこのポジションにおいても、ボケも素直で好感が持てます。発色も良く色収差の少なさが感じられます。
作例4は180mm近傍、開放F2.8で撮った作例です。望遠アフォーカルズームレンズでもっとも性能の癖が出やすい焦点距離域であえて撮影しましたが、まったく不満のないシャープネスを維持しています。また、あえてボケの欠点が出やすい背景にしてみました。しかしながら、ボケ味は素直で二線ボケは出現しませんでした。ピントの合っている目や髪の毛は心地よいシャープネスを保ち、とても好感が持てます。
作例5は望遠端200mm、開放F2.8で撮った作例です。ピントの合っている目や髪の毛は心地よいシャープネスで好感が持てます。むしろカミソリのようなカリカリした硬さが無いところにこのレンズの奥行きの深さを感じます。色収差も少なく発色も良いです。
作例6も望遠端200mm、開放F2.8で撮った作例です。ボケ味の良くわかる背景にしました。ピントの合っているところはシャープですが、ボケ味も上質です。繰り返しパターンの様なボケに対しては過酷な背景ですが、二線ボケの傾向もなくとても好感が持てます。
実は佐藤進さんと私、大下さん、ズームマイクロの芝山さんの4人で「38年組」と言うものを結成しています。とは言っても、大仰なものではなくて、昭和38(37)年生まれの同学年の仲間と言うだけの話です。まぁ、ただの仲良し4人組の飲み仲間と言うわけなんですが、入社以来職場が変わってもお互いを尊重し合いながら30年ゆうに超えた今でもその関係が続いているのです。彼とはそんな間柄なのですが、お互い年を重ねました。佐藤進さんの武勇伝や逸話は数知れないほどあります。しかし、話せないものが殆どで、今回ばかりはなかなかペンが進みません。また、彼は紙面やインタビューを断り、人前に出るのを嫌う人でした。実はニッコール千夜一夜物語には、もっと早く登場させたかったのです。しかし、なかなか本人のお許しが出ませんでした。ところが、今回は意外とあっさり説得に成功。彼の功績と人となりを皆さんに紹介することができました。ここで彼の逸話を一つご紹介します。もう20年以上前の話なので進さんお許しくだされ。
彼は元々量子論を学んだバリバリの物理屋さんです。そんな彼の発言は頭の思考とは真逆で、非常にウィットに富んだ面白い語り口調でした。会話の最中に時々笑いをはさむなど、会話好き、議論好きな一面も持っています。しかしそんな彼ですが、どんな状況に置かれても常に人を冷静かつ客観的に観察できる能力を持っていたのです。
ある日、彼が高速道路を愛車で走行していると、1台の大型トラックに嫌がらせを受けたそうです。そのトラックは、追い越し車線にいた彼の真横にぴったり並走して、徐々に幅寄せをしてきたのです。右側は壁です。彼はとっさに、助手席に放り投げてあったニコンF3を握りしめました。そして、彼の車のサイドミラーがトラックに当たって大破したとたん、トラックは涼しい顔で走り去ったそうです。映画やドラマさながらの状況です。その時、彼は逃げ去るトラックのナンバーめがけてF3のシャッターを切りました。勿論ノーファインダーで。そして直ちに警察に届け出ました。後日フィルムを現像するとピントは鮮明。おかげで無事犯人が捕まったと言うわけです。まず私は進さんの冷静さに驚きました。私ならパニックになって、大事故になっていたかもしれません。しかし、その後の彼の対応がまた神対応。犯人はとある運送会社の社員。後に社長から謝罪の電話があったそうです。皆さんならどうしますか?わたしなら、血管が切れるほど罵声を浴びせるかもしれません。「死ぬところだったんだぞ!」とか「殺す気か!」とか。しかし、彼は「きっと私の運転にも悪いことがあったんでしょう。気に障ったのかもしれませんね。私こそ申し訳ない。」と。信じられます?神レベルの心の広さ。もちろん修理代は出してもらったらしいのですが。私はこの話を聞いて進さんが神様に見えました。それからというもの、進さんには人間関係の相談に乗ってもらっています。しょっちゅう泥酔して終電を乗り越し、タクシー代に数万円も使っている進さん。しかしただの呑兵衛ではなかったのですね。言うならば「天才佐藤」ではなく、まさに「酒神佐藤」ですね。