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第六十四夜 EL-NIKKOR 80mm F5.6N

無個性を目指した個性
EL-NIKKOR 80mm F5.6N

今夜は少し趣向を変えて撮影用ではないニッコールのお話をしてみたいと思う。といってもフィルム時代から写真を楽しまれていた方にはなじみの深い引き伸し用レンズ、EL-NIKKORのお話である。
引き伸し機や引き伸しレンズがいつ頃どのように誕生したのかについて定説はないが、必要性が認知され、一般化したのには、ライカをはじめとする35mmフィルムカメラの誕生と普及によるところが大きかったと思われる。4x5や8x10に代表される大判カメラでは最終画像は密着焼き(ネガの原版と印画紙を直接密着させて露光し、原版と同じサイズの写真を得る方法)による等倍画像も普通であったし、6x9判、6x6判でも密着焼きで何とか鑑賞に堪える写真を得ることができる。しかし画面サイズが24x36mmの35mm判では、何が写っているかが辛うじて判別できる程度で、写真としての鑑賞は難しい。そのため、35mm判カメラの普及とともに、引き伸しという技法が行われるようになっていったのである。

大下孝一

EL-NIKKORの歴史

戦後、日本光学は双眼鏡、カメラ、写真レンズとともに様々な分野で使われるレンズの開発を行ってきた。例えば写真製版に使われるAPO-NIKKOR、映画撮影用CINE-NIKKORなどである。引き伸し用レンズは、当時開発していた小型カメラとの親和性も高いため早くから企画され、1948年に50mmF3.5を発売、1957年には明るさと性能を改良した50mmF2.8を発売している。この50mmF2.8は高い性能で評判となり、それに応えるべく、1960年代に、引き伸しレンズをEL-NIKKORシリーズとしてラインナップ化する計画が持ち上がったのである。その先陣を切って1966年に発売されたのが初代EL-NIKKOR 80mmF5.6であった。さらに、同年1966年には63mmF3.5と105mmF5.6と135mmF5.6、1967年には50mmF4、1972年には75mmF4が発売され、初期EL-NIKKORラインナップが完成する。
その後もEL-NIKKORの改良は続けられ、1980年前後には光学系の設計変更とともに、暗室での操作性に配慮した外観を備えたNシリーズに順次切り替えられていった。80mmF5.6も1980年にEL-NIKKOR 80mm F5.6Nに生まれ変わり、光学性能を一段と向上させている。

写真2 マウント脇の小窓から光を取り込み絞りを光らせる機構

ところが皮肉なことに、この頃から引き伸し機および引き伸しレンズの需要が徐々に減少してゆくことになる。一つの要因はカラーネガ写真の普及とその性能の向上である。昔話になってしまうが、カラーネガが普通に使われだしたのは私の子供時分、1970年頃のことだったと記憶している。当時のカラーフィルムやプリントは、モノクロ写真に比べると何倍も高価だったが、色の再現性はリバーサルフィルムに劣るもので、「記録としての写真はやっぱりモノクロかリバーサルでなくちゃね」というのが当時のハイアマチュアの共通認識だった。しかし、ネガカラーシステムはその後急速に進化し、1980年代にはリバーサルに肉薄する色再現性が得られるようになったのである。当時大学生だった私は、フジカラーHR(1983年発売)のプリントを見た時の衝撃を忘れることができない。
そして決定的だったのが、デジタルカメラの台頭である。デジタルカメラは、引き伸し機からパソコンとプリンターへと写真の印刷環境を変貌させ、そこに引き伸しレンズの出る幕はなかった。こうして、EL-NIKKORシリーズは2006年、ベストセラー機NIKON D70(2004年発売)やD40(2006年発売)の発売と呼応するように、ひっそりと販売を中止したのである。

引き伸ばしだけでない用途

作例0

645版カメラ(GS645 75mm F3.5→F8)
TMAX400
SPD 1:1現像
引き伸しレンズ
EL-NIKKOR 80mm F5.6 →F11
印画紙
SPVR3

なんだか冒頭から湿っぽい話になってしまったが、50mm F2.8など一部のEL-NIKKORは産業用レンズとして栃木ニコンで継続生産されている。それは、昔からEL-NIKKORが様々な装置に組み込まれ、製品の「眼」として活躍してきた実績があるからである。それらを逐一紹介することはできないが、例えばプラネタリウム・メガスターの投影レンズがEL-NIKKOR 50mm F2.8だったことは有名である。
さらに近年、撮影用レンズとして引き伸しレンズが再び脚光を浴びている。このトレンドの理由の1つに、一眼レフよりバックフォーカスの自由度の高いミラーレスカメラが挙げられるが、さらにもう一つの理由があるような気がする。

作例0として、このEL-NIKKOR 80mm F5.6Nを引き伸しレンズとして使った例を掲げる。スキャンの関係でそれほど解像度が高くない画像だが、全画面均質でシャープな画像である。しかし、これは写真を撮った撮影レンズ(およびフィルム)の個性であって、引き伸しに使ったEL-NIKKORの個性ではない。引き伸しレンズの必要要件はフィルム原版の画像を、ありのままに印画紙に結像させることにある。つまり、この写真に引き伸ばしレンズの個性が投影されているなら、そのレンズは引き伸しレンズとしては失格なのである。個性を出さないこと、個性を封印することこそが引き伸しレンズの信条なのである。この素直な特性が、撮影レンズとしてEL-NIKKORを使いたい理由になっているのではないだろうか?

EL-NIKKOR 80mm F5.6N

この新型80mm F5.6レンズの設計を担当したのは、このお話に度々登場する森征雄さんである。森さんはEL-NIKKORシリーズ新設計にあたり、第9夜で佐藤さんがちらっと紹介しているEL-NIKKOR 50mm F2.8Nなど、ほかにもいくつかのレンズの設計を担当されている。

図1 昭和55年のEL-NIKKORカタログより転載

図1にこのレンズの構成を掲げる。全体として物体側に凸面を向けたメニスカス形状の凸凹の接合レンズ、物体側に凸面を向けた凸メニスカスレンズ、絞り、像側に凸面を向けた凸メニスカスレンズ、全体として像側に凸面を向けたメニスカス形状の凹凸接合レンズからなっている。このようなレンズ構成はオルソメタータイプと呼ばれ、一眼レフ用のレンズとしてはあまりなじみがないが、大判カメラ用の広角レンズに広く用いられている。このオルソメタータイプの特徴は、対称型の構成のため、歪曲、コマ収差、倍率色収差の補正が良好なことと、広い画角にわたって像面湾曲と非点収差の補正に優れていることである。特に像面の平坦性の求められる引き伸しレンズにはうってつけのレンズタイプと言えるだろう。他方球面収差の補正能力に乏しいため、明るいレンズの設計は困難である。そのため、このレンズでもF5.6の明るさに留めている。
ところで、引き伸しレンズに必要な要件とは何だろうか?一つは原版を印画紙上に投影することである。EL-NIKKORでは基準となる引き伸し倍率が決まっており、50mmレンズでは8倍、75mmや80mmレンズでは5倍が基準倍率である。これはそれぞれ35mmフィルムや120フィルムを四つ切りサイズ程度に引き伸ばす拡大を想定している。無限遠からバストアップ程度の距離を想定している撮影用レンズとの決定的な違いと言えるだろう。EL-NIKKON50mmでは20x~2x、80mmレンズでは15x~2xが想定されている使用倍率で、無限遠が含まれていないことは注意すべきだろう。
もう一つは、撮影レンズより広い波長域で収差補正を行わねばならないことである、モノクロ印画紙はレギュラーといって、近紫外から紫色にしか感度をもっていない。一方引き伸し機でピントを合わせるのは人間であるので、人がピントを合わせる緑~黄色のピント位置と紫のピント位置が一致している必要がある。さらに、カラーの引き伸しを考えると可視光全域で良好に収差補正されている必要がある。結果としてEL-NIKKORでは近紫外の380nmから近赤外の700nmまでの波長を考慮して設計しているのである。
最後に、撮影レンズの性能を余すことなく印画紙上に結像させねばならないので、歪曲収差がないこと、像面の平坦性がよいこと、周辺光量が豊富なこと、高解像であることが求められることはいうまでもない。ただし、後の2項目については開放絞りではなく実用絞りでの性能が重要である。引き伸しレンズは開放絞りで使われることはあまりなく、露光のコントロールを容易にするため、50mmレンズならF8~11、80mmレンズならF11 ~16程度に絞って使われるのが一般的であった。ただし、過度に絞り込むと回折の影響で解像度が低下してしまうので、絞り込みすぎないことが肝要である。

レンズの描写

最後にこのEL-NIKKOR 80mm F5.6を、撮影レンズとして使った例をみてゆこう。このレンズは図1の通りバックフォーカスが62.6mm、マウントから焦点面までの寸法も73.7mmと十分長いので、一眼レフに取り付けても無限遠からピント合わせをすることができる。EL-NIKKORに限らず、一般に引き伸しレンズはライカスクリューマウント(Lマウント)になっているので、Lマウント-FマウントのアダプターでFマウントのボディに取り付けることができる。ただし、EL-NIKKORにはピント合わせのための機構がついていないので、別途繰出し機構を用意する必要がある。焦点距離80mmで繰出し量が大きいので、近距離を優先して使うならベローズを準備するのが便利である。またNタイプのEL-NIKKORでは、写真2のように、引き伸し機に装着時、絞りを光らせる採光窓がついている。暗室作業には大変便利な機構なのだが、撮影レンズとしては漏光の原因となるので、採光窓を塞ぐ必要がある。
作例1は、東京駅を絞り開放で撮影した。撮影倍率は約1/300倍ほどなので、標準使用状態を逸脱しているが、6x7版のレンズをトリミングして使っているので画面隅々までほぼ均質な描写である。シミュレーション上は無限遠近くでは画面周辺に内コマ収差が発生しているため、わずかに四隅の描写が甘くなっているはずだが、そう言われても気づかないレベルである。D810の高画素を余すことなく発揮し、レンガの目地も克明に描写している。

作例1

D810 EL-NIKKOR 80mm F5.6
絞り:F5.6
ISO:100
露出モード:A-Auto
Capture NX-Dにて現像

作例2

D810 EL-NIKKOR 80mm F5.6
絞り:F5.6
ISO:100
露出モード:A-Auto
Capture NX-Dにて現像

作例3

D810 EL-NIKKOR 80mm F5.6
絞り:F5.6
ISO:400
露出モード:A-Auto
Capture NX-Dにて現像

作例2ではさらに近づいて約1/50倍、絞り開放で撮影した趣のある窓扉である。使われた木材の年輪や窓ガラスのホコリまでわかるシャープな描写で、建物の質感がダイレクトに伝わってくるようだ。もちろん歪曲収差のほとんどない引き伸しレンズなので柱が曲がって写る心配も全くない。
作例3は、設計の基準倍率に近い距離で撮影した花の写真である。近距離になればなるほど被写界深度が浅くなるため、絞り込んで撮影したいところだが、明るさの少ない温室内で三脚不可だったため、絞り開放手持ちで極力全画面にピントがくるように苦心した。

作例4

D810 EL-NIKKOR 80mm F5.6
絞り:F5.6
ISO:100
露出モード:A-Auto
Capture NX-Dにて現像

作例5

D700 EL-NIKKOR 80mm F5.6
絞り:F11
ISO:200
露出モード:A-Auto
Capture NX-Dにて現像

作例6

D810 EL-NIKKOR 80mm F5.6
絞り:F8
ISO:100
露出モード:A-Auto
Capture NX-Dにて現像

作例4はさらに撮影倍率1/3倍弱で撮影した花の写真である。基準倍率を超える近距離では、輪帯の球面収差および外コマ収差が発生するため次第に性能が低下するが、それがもっとも顕著に出るのがあとボケである。ピントの合っている部分は依然としてシャープだが、ボケが若干リング状になり少しうるさい印象を与えている。この収差起因のボケの硬さは1~2絞り絞り込むことでかなり解消されるだろう。
作例5では、作例4と同じくらいの撮影倍率で撮影したが、立体的なランの花なのでF11まで絞り込んで撮影している。この作例では絞り込んでいるため、作例4のようなボケの硬さが解消されている。
作例6はさらに接近して1/2倍強での作例である。ピントが心配だったのでF8まで絞り込んだが、半逆光に映える穂の輝きが美しく表現されている。やはり近接撮影の魅力は眼に見えないものの再現であり、作例3~6の写真には肉眼で観察できないような自然の造形美がストレートに再現されている。近距離での高い解像が身上のEL-NIKKORの良さが最も生きる条件といえるだろう。

このレンズの設計者の森さんは、私が入社当時は栃木ニコンに出向されていたのだが、その後光学設計に戻られて特注レンズなどの設計をされていた。喫煙所で設計中のレンズ断面図を眺めながら、静かに煙草をくゆらせている姿が懐かしく思い出される。そうして私が通りかかると「大下さん、大下さん」と呼びとめられ、「いま設計しているレンズなんですけど、どう思います?」と若手の私にアドバイスを求めてくるのだ。「このへんのレンズ構成に少し違和感がありますけど」などと感想を言うと、「そうそう、そうなんですよ。私も気に入らなくってね。いや、ありがとう」と言い残して仕事に戻られる。
いま思えば、私に意見を求めるというよりは、私との会話を通して自分の考えを整理したかったのかもしれない。あるいは写真レンズ以外の様々なレンズを私に見せることで、レンズ設計の奥深さや広がりを伝えたかったのかもしれないと思うのである。
このEL-NIKKOR 80mm F5.6Nは、図1を見ると絞りを挟んで完全に対称形状のレンズに見えるが、完全対称に設計すると基準倍率5倍の位置で収差が発生してしまう。そこで対称型レンズタイプでも少しだけ対称性を崩して設計しなければならない。ところがこのレンズは、6つのレンズエレメントのうち2組が同じレンズで、2枚のレンズだけ曲率やガラス材料を変えて対称性を崩して性能を出しているのだ。きっと森さんはこのレンズを設計している時も、一人煙草をくゆらせながらレンズ断面図を眺めていたのだろう。そして眺めるうち、レンズを共通にするアイディアを思いついたのではないだろうか。そんな情景が思い浮かぶのである。

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