パンケーキ標準レンズ
AI Nikkor 50mm F1.8S
第六十夜は、ニッコール千夜一夜物語の影の立役者・中野さんがF3の設計者として活躍していたころのレンズ、AI Nikkor 50mm F1.8Sをとりあげよう。
大下孝一
ニッコール千夜一夜物語の連載が、ニッコールクラブ機関誌で始まったのが1998年のことなので、連載の開始から2017年でいよいよ20年となる。レンズに込められた設計者の思想を伝え、ニッコールレンズにより親しみをもってほしいとの想いで始まったこの連載のきっかけとなったのが、当時F一桁シリーズの開発をしていた中野良幸さんとの出会いだった。中野さんとは、第五十二夜で紹介したニコンおもしろレンズ工房の開発をしていた塚本さんの上司だった縁で顔見知りとなり、佐藤さんとともに時々職場におじゃましてはカメラのお話をいろいろ伺うようになったのである。「F3のシャッター機構は、F2に比べてこんなに簡素にできたので、なめらかな巻き上げが実現できたのですね」と目を輝かせながら、さらさらとフリーハンドで描く内部機構の斜視図の美しさが今でも心に残っている。さまざまなカメラのメカニズムが頭の中に入っているので、何も見なくてもわかりやすくきれいな図が描けるのだろう。カメラのことならどんな質問をしても答えが返ってくる博識な方だった。
そんな中野さんから、ニッコールクラブにレンズのことを連載してみませんかとお話があったのは、おもしろレンズが発売となってしばらく後のことだった。最初は驚いたが、「ボディでは今までにもありましたけど、現役のレンズ設計者がレンズの連載をするっていうのは、今までにない企画だから絶対うけますよ!」という中野さんの熱意に「半年ごとのリレー連載だったら、なんとかやれるかもしれません」と連載を引き受けることになったのである。いまこうして20年もの間、好評のうちに連載が続けられていることを思うと、きっかけを与えて下さった中野さんには感謝してもしきれない。ニッコール千夜一夜物語の立役者の一人である。
前置きが長くなってしまったが、第六十夜に紹介するレンズは、中野さんがF3の設計者として活躍していたころのレンズ、AI Nikkor 50mm F1.8Sをとりあげよう。
Nikon F3の開発が行われていた1970年代後半、並行してもう1つの一眼レフの開発が進んでいた。それが1980年、NIKON F3と同時に発売(一部地域ではその前年に発売)となったNikon EMである。この機種は1978年発売のNikon FM、1979年発売のNikon FEを一層小型にしたエントリーユーザー向けの戦略商品であった。そしてこの求めやすい低価格と小型軽量のNikon EMにふさわしいレンズとして、ニコンレンズシリーズEの開発がスタートするのである。50mm F1.8もこのレンズシリーズEの1本として開発がスタートした。
日本国内では未発売であったため、あれっ?と思われる読者の方がいらっしゃるかもしれないが、米国を含む一部地域で販売されたレンズシリーズE 50mm F1.8とAI Nikkor 50mm F1.8Sは光学の基本設計は同じで、外観やコーティングが異なる兄弟レンズなのである。
この設計を担当したのは、この物語の第十五夜に登場する中村荘一さんであった。中村さんは、私が入社の頃は光学部の部付であったが、時々職場に来て若手の私にも「どうですか?設計の進み具合は?」と声をかけてくれる気さくな方であった。そして中村さんで忘れられないのは、第五十二夜と第五十四夜でとりあげた「ニコンおもしろレンズ工房」である。このレンズは1995年12月に発売されたが、その5年後の2000年9月にレンズ外観を一新したリニューアル版がニコン技術工房から発売されている。この光学設計担当が、ニコン技術工房に移られた中村さんだったのである。試作品を見ながら「いやぁ、大下君が設計した当時のガラスがもう入手できなくて、設計変更に苦労しちゃったよ。」と楽しそうに話していた姿を思い出す。おそらくこれがニコンでの最後の仕事だったのではないかと思うが、退職までレンズ設計に情熱をもって取組まれていた方であった。
話を元に戻そう。このレンズに課せられた課題は3つである。小型であること、安価なこと、そして高性能なことである。レンズシリーズEにも使われるレンズといえども、従来のレンズと同等以上の性能が求められた。
小型で安価ということではNikkor AUTOの時代から生産されてきた50mm F2が思い浮かぶが、当時普及型の50mmレンズの主流はF1.8だったので、競争力のないF2のレンズの外観チェンジという選択肢はなかった。しかも目標とされたレンズの全長は50mm F2より小さかったのである。
中村さんはこの難題をどう解決していったのだろうか?図1がAI Nikkor 50mm F1.8Sのレンズ構成図である。いわゆるガウスタイプのレンズ構成である。参考に、同じようにガウスタイプを採用した近いスペックのレンズとして、第二夜で紹介したAI Nikkor 50mm F2のレンズ構成図を図2に再掲する。両者を比較して一見してわかることは、絞りを挟んだレンズの凹面の曲率が緩いこと、そして絞り間隔がずいぶん狭いことだろう。これがこのレンズの特徴になっている。
ガウスタイプのレンズは、絞りより前側の凸レンズ2枚で被写体からの光を集光させて絞り前後の凹メニスカスレンズに導くことで収差の良好な補正を図っている。言い方を換えれば、絞り部分の光線の「くびれ」が必要なのである。そのため従来、前玉から絞りまでに、ある程度の長さが必要と考えられていたのだ。そしてガウスタイプは対称型なので、絞りより後ろ側にも同等の長さが必要であり、小型には不向きな光学系と見なされていた。
中村さんは、そうした従来からのレンズタイプの見立てを無視して、絞り間隔を狭め、第2レンズと第5レンズの厚さを薄くしてしまった。この方が一眼レフに必要なバックフォーカスを稼ぐのに有利なはずだし、その自由度を使って収差補正ができるはずだ、中村さんにはそんな想いがあったろう。そしてその直感は見事に的中したのだ。さらに薄型化することで各レンズの曲率が弱まり、コマフレアも減らすことができたのである。こうして50mm F2レンズより3mm以上全長の短い「パンケーキ」50mm F1.8が出来たのである。
いつものように、このレンズの描写をみてゆこう。このレンズの特徴のひとつが歪曲収差の少なさだ。無限遠被写体に対してはわずか0.1%、最も収差の出る最至近でも1%に収まっている。そして倍率色収差も極めて小さい。作例1はF8に絞り込んで撮影した東京駅舎である。直線が直線に写り、画面の隅々まで端正な描写である。
作例2はF5.6に絞って撮ったバラの写真である。少しボケた部分とのつながりも自然で、背景のマリンタワーも期待通りのボケが得られた。
作例3はF4くらいに絞り込んで撮影した湯島天神の撫で牛像である。このレンズの良さは少し絞り込んだ時の描写の信頼感だろう。何を撮ってもかっちり写ってくれる。この作例でも、撫で牛の金属質感が再現されている。この金属質感の再現には極力コマフレアの少ないレンズが適していて、絞り込んだこのレンズの特徴が出ているといえるだろう。
一方F1.8開放の描写はどうだろうか?作例4はF1.8開放で撮影したバラの写真である。他の作例と比べるとソフトな描写で、ピントの合っている画面中心のバラのまわりにも淡いフレアがとりまいている。この傾向は遠景でも同様で、開放F1.8では画面周辺まで解像はあるもののフレアっぽい描写で、周辺光量の低下もやや目立つ。F2.8まで絞ると画面の主要部分はフレアっぽさがなくなりコントラストが増す。F4に絞るとビグネッティングによるケラレがなくなり周辺まで均質な光量となり、画面全域コントラストの高い描写となる。さらにF5.6~8に絞ると画面全域で高解像な描写が得られる。このように絞りによって描写の特性が変わるレンズなので、お持ちの方はぜひ絞りによる描写の違いを確かめていただきたい。
作例5は作例4との比較のためにF4で撮影したバラの写真である。F4に絞っているのでコントラスト高く、端正にバラを描写している。作例5と比較すると作例4では、フレアっぽさが花弁のやわらかさを増し、周辺光量の低下が中央のバラに視線を集中させる効果が出ていると思われるがいかがだろうか?
また、作例4と5を比較するとボケにも違いがあらわれている。このレンズでは、近距離になるに従って外方性コマ収差が発生する。そのため開放では後ボケ像の一部にエッジが出るため、シーンによっては二線ボケが出たり、ピントの合っているところとのつながりに不自然なところが生じる。一方F4に絞り込んだ作例5では、絞り込むことでコマ収差成分がなくなることで自然なボケになっている。みなさんはどちらが好みだろうか?
1980年にNIKON EMとともに発売された(ニコンレンズシリーズEとしては1979年に発売)このレンズは、薄さと高い描写性で多くのユーザーに愛され、EMシリーズの魅力度を高めることに貢献した。さらに光学基本設計はそのままに(コーティングなど変更)、AI AF Nikkor 50mm F1.8Sに生まれ変わり、現在(2016年)もAI AF NIKKOR 50mm F1.8Dとして販売されている。AFレンズとなってからは薄型パンケーキの外観は失われてしまったが、写りは同じ(実は上記作例3はAF-Dレンズで撮影)である。最新版のAF-S NIKKOR 50mm F1.8Gと比較すると、さすがに開放時のコントラストやシャープネスは見劣りするが、歪曲が少なく絞り込んだ時の描写はそん色ない。絞りによる描写特性の違いを、個性として楽しんでいただきたいレンズである。