寄れる力
AI Nikkor 28mm f/2.8S
ニコンでは、AFレンズが当たり前になっている現在でもなお、マニュアルフォーカスレンズをお求めになるお客様向けにAI-Sニッコールを何本かラインナップしている。今夜はその中から渋めで玄人好みのする1本、AI Nikkor 28mm f/2.8Sをとりあげてみよう。
大下孝一
皆さんは新しいレンズを購入される前に、カタログやメーカのホームページをチェックされることだろう。そして、「AF-S 200-500mmを買ったら野鳥や動物写真がもっとアップで撮れそう」とか、「AF-S 14-24mmを手に入れたら、雄大な景色を前景に星の写真を撮ってみたい」とか、「AF-S 58mm f/1.4を買って思う存分ボケ描写を楽しみたい」、はたまた「今度写真のオフ会があるから、400mm f/2.8でも買って友人をアッといわせるか、いやでも持ってゆくのが重いなぁ」などなど、いろいろとレンズを買った後の写真ライフの充実に期待を膨らませることだろう。そんな時、皆さんはレンズスペックのどんなところに着目されるだろうか?まずは、レンズの焦点距離とF値だろう。焦点距離はレンズの画角、そしてF値は暗いシーンでの撮影力やボケに直結する最も基本的なスペックである。そして、大きさ、重さ、価格のチェックも欠かせない。どんなにいいレンズでも、自分で持ち運んで撮影できるサイズでなければ結局は使われなくなってしまうし、そもそも購入できなければ高嶺の花である。また、カメラにつけた時のバランスや格好のよさを重視する方もいらっしゃるだろう。
このように色々な着眼点があるなかで、とかく埋もれがちになってしまうが、もっとよく見てほしいスペックが「最短撮影距離」と「最大撮影倍率」である。これは使い勝手に直結する。例えば標準ズームで花を撮影していて、もっとアップにしたいなぁと望遠レンズに交換すると、最短撮影距離が長くてアップで撮れなかった経験はないだろうか?マイクロレンズはそんな時活躍してくれるレンズだ。実際に写真を撮る上で最短撮影距離は、焦点距離と同じくらい重要なスペックなのである。そうした目でカタログを眺めると、今回紹介するAI 28mm f/2.8Sの特徴が見えてくる。そう、最短撮影距離が20cmと、広角レンズの中で群を抜いて短く、最大撮影倍率は1/3.9倍と高いのである。この「寄れる力」が今なおMFレンズラインナップに加えられている理由のひとつなのだ。
このレンズを紹介する前に、少し回り道をしてニコンでの28mm f/2.8レンズの歴史を振り返っておきたい。
改めて気が付いたのだが、ニコンで初めて28mm f/2.8のレンズが発売されたのは、F発売から15年もたった1974年のことである。1960年にNikkor-H Auto 28mm F3.5が発売されて以降、1965年には35/2、1967年には24/2.8、1968年に20/3.5、1971年にはより明るい28/2が発売され、着々と広角レンズのラインナップが拡充される中、28mmの2.8化はおきざりになっていたのである。しかし、この間何もアクションがなかったわけではない。社内での開発検討は継続して行われていたのである。
私が調べただけでも、大きな試作が3回、設計バランス変更などの小試作を含めると6回もの試作が行われている。そして最後6回目の試作を経て、1974年にようやくnew Nikkor Auto 28mm f/2.8が誕生するのである。
なぜ発売までこれほどの年月がかかったのか、その理由は今となってはよくわからない。ただ、試作1号のレンズの設計性能を確認した限りでは、性能は良好で、技術的な問題というわけではなさそうだ。当時他社との差別化のため、より広角の20mmや、さらに大口径の28mm f/2開発の優先度が高く、結果的にf/2.8の発売が後回しになってしまったのだろうと想像している。
こうして発売されたnew Nikkor Auto 28mm f/2.8は、光学系はそのままで1977年にAI Nikkor 28mm f/2.8にリニューアルされている。ところがその後、Nikon LENS SERIES Eの新規開発と、AIレンズをAI-Sレンズにリニューアルするという計画が浮上したことで1つ問題が発生した。既存のAIレンズは、光学系流用でAI-S化するのが基本方針であったが、LENS SERIES Eのラインナップの中には35mm f/2.5、100mm f/2.8の他に28mm f/2.8レンズが含まれており(日本では未発売)、その性能が実は大変優秀だったからである。もちろんAI Nikkorも、広角レンズでありながら歪曲収差が極めて少なく、結像性能も優秀なレンズであったが、Eシリーズ28mmは、歪曲収差が若干大きく、少しフレアっぽいものの、AI Nikkorとそん色ない性能をもっていたのである。
本家NikkorがEシリーズと同等の性能では沽券に関わる。こうして28mmは光学設計をリニューアルすることになるのである。設計を任されたのは藤江大二郎さんであった。
藤江さんは、写真レンズはもちろんのこと、ファインダー光学系、機器用光学系など多方面に活躍された方ある。そして製品化はならなかったが、PFレンズ開発の先鞭を切ったのも藤江さんであった。また写真撮影が趣味で、退職された後も精力的に写真活動をされていると伺っている。
私自身、仕事でも趣味の写真でも、大きな影響を受けた先輩である。
このニッコール千夜一夜の初期の作例の多くがF301で撮影されているのも、当時、藤江さんの愛機がF301だった影響が大きい。ファインダーは藤江さん自身の設計、そして明るくピント合わせのしやすい新開発のスクリーン、モータードライブ内蔵で小型軽量、しかも瞬間絞り込み測光によるAE、「高級機じゃないけど実はいいカメラなんですよ~」。そんな藤江さんの言葉でF301を買ってみると、なるほど藤江さんが勧めるカメラ。派手なスペックはないが、撮影に必要な機能が凝縮されていて、使うほどに手になじんでくるようなカメラだった。そんなわけで私のメインカメラの座はF2からF301にとって代わったのである。
そんな写真好きの藤江さんだから、28mmのリニューアルを任された時、最短撮影距離で圧倒的な差をつけるというアイディアが自然に浮かんだに違いない。広角レンズで最も寄れるレンズができたら、同じ焦点距離、同じF値でもEシリーズとはカタログスペックで差が出せるし、オンリーワンのレンズとして長く愛用されるレンズになるだろう。こうして2回の試作を経て1981年、AI Nikkor 28mm f/2.8Sが誕生するのである。
図1がこのレンズの断面図である。8群8枚のレンズ構成で、先頭レンズに凸レンズを配置したレトロフォーカスタイプのレンズである。そして全体繰り出ししつつ、第4レンズと第5レンズの間の空気間隔を変化させ、近距離での収差変動を補正する「近距離補正方式」のフォーカス機構によって、0.2mの最短撮影距離を実現している。
このレンズの特徴は、まずAI Nikkorゆずりの歪曲収差の小ささだろう。これは先頭に凸レンズを配置した効果で、たる型で1%程度に抑えられており、普通に撮影していて歪曲が気になることはないだろう。また、球面収差やコマ収差が良好に補正されているため、開放でも画面の主要部分はコントラストが高くシャープな描写が期待される。しかし、広角レンズで問題となるサジタルコマフレアが残っているため、開放では画面四隅に行くに従って、徐々にフレアっぽくソフトな描写になってゆく。またシーンによっては、開放で四隅の周辺光量低下が気になることもあるが、光量低下もサジタルコマフレアもF5.6に絞ればほとんど目立たなくなるだろう。
像面の平坦性や非点収差は、さすが近距離補正されているだけあって、無限から最至近まで非常に良好だ。ただし、AF28mm f/1.4Dの回でお話しした通り、1つの間隔自由度で全ての収差を補正することはできない。そのため、近距離になるにしたがって徐々にコマ収差が発生し画面周辺のコントラストを低下させる。最至近0.2mでこの影響を完全に排除するには、F11程度まで絞り込む必要があるが、F5.6~8まで絞り込めば十分実用的な描写が得られるだろう。
さて最後に、作例を見ながらこのレンズの描写を紹介しよう。
作例1は2枚あって1aが開放、1bがF5.6に絞り込んで撮影した写真である。1aの画像をみると、画面の主要部分は絞り開放からシャープでコントラストの高い描写をすることがおわかりいただけるだろう。画面のコーナーではサジタルコマの影響でベールのかかったようなコントラストの低下があるが、1bのF5.6まで絞った画像ではコントラストの低下も解消され、全画面で切れのある描写になっている。また1aの絞り開放の画像では、画面隅で空が若干暗くなっており、周辺光量低下がみられるが、F5.6の絞った1bの画像では解消されている。
作例2は夜景の写真である。画面左には十三夜の月が写り込んでいる。夜景の写真で気づくのはこのレンズの透明感のある描写で、これはレンズのコントラストの高さに起因するものである。その特徴を生かすためには、四隅のサジタルコマを排除するためにF5.6まで絞り込んで使いたい。
作例3と4はこのレンズの持ち味である花のクローズアップ写真である。花のクローズアップといえば望遠マイクロレンズが定番だが、このレンズで撮影すると、被写体の花だけでなく、そのまわりの景色まで写し込むことができる。このため、フィールドで花の生息地の記録などでは、オンリーワンのレンズとして威力を発揮することだろう。
作例3は、植物園の温室で撮影したもので、最至近ではないが植物の生態と周りの雰囲気が写しとられていると思う。温室内は三脚がNGだったため、高感度となってしまい、画像が荒れてしまった。ご容赦いただきたい。
作例4は、最至近での花のアップである。通常のレンズで撮影する間合いから、さらにぐっと接近できるので、背景を写し込みながら、小さな花もアップで撮影することができる。作例3、4とも背景は相当ぼけているが、実はそれぞれF8、F5.6に絞り込んでいる。クローズアップ撮影では広角レンズといえどボケ量は大きい。主要被写体を深度でカバーして、背景の雰囲気をある程度出すには、F5.6より絞り込むことになるので、設計上発生していた至近でのコマ収差は、実用上問題になることはないのである。
作例5は逆光での描写である。銅像の右手の先に太陽がある逆光のシーンだが、目立ったゴーストやフレアは発生していない。また作例1やこの作例の背景の建物に着目すると、歪曲がほとんど目立っていないのが、ご理解いただけるだろう。
今回D700にこのレンズをつけて、近所の公園や植物園で実写をしたのだが、広角レンズでクローズアップは構図が新鮮で実に楽しかった。寄れることで撮れる写真の幅がぐっと広がるのだ。広角だから少しのアングル変化で背景が変わり、花の表情が変化する。そうか、藤江さんはこんな写真が撮りたくてこのレンズを設計したのかと、開発の想いが伝わってくるレンズである。皆さんにもこの「寄れる力」を試していただきたい。