本格的広角ズームのはじまり
Ai Zoom Nikkor 25-50mm F4
今夜は、今日の広角ズームの礎となったレンズ、Ai Zoom Nikkor 25-50mm F4をとりあげよう。
大下孝一
過去のニッコール千夜一夜をひもといてみると、ズームレンズをとりあげている回数はかなり少ない。過去45回のうち、ズームレンズをとりあげた回は、COOLPIXの回を除いてたったの6回である。これは昔のレンズにズームレンズが少なかったことにも関連する。広角ズームに至っては、第十五夜に佐藤さんが取り上げた<New>Zoom Nikkor 28~45mm F4.5以来、2本目の登場となる。ニッコールの歴史を改めて調査して驚いたのだが、この1979年発売の25-50mmは、第十五夜で紹介した28-45mmの直接の後継機で、その間28mmを含む広角ズームは1本も発売されていないのだ。標準ズームの24mmスタートが当たり前となり、14-24mm F2.8という大口径超広角ズームが発売されている現在とは隔世の感がある。1979年といえばNikon F3やNikon EM発売の前年である。その頃には、50-300mmという当時としては「超」高倍率ズームも売られていたし、長らく世界最広角レンズに君臨したレンズ13mm F5.6(第九夜掲載)も既にカタログに載っていた。それほど広角ズームの設計は困難だったのである。
広角ズームに限らず、ズームレンズ設計の困難さはまず計算量の多さが挙げられる。単焦点レンズであれば、設計仕様の焦点距離だけシミュレーションすればよく、画面中心の収差、画面周辺のいくつかの画角の収差、それに近距離の性能が加わるくらいである。それがズームレンズとなると距離に加えて焦点距離の変化が加わるので、計算量が数倍に膨れ上がる。1960年代に電子計算機(この言い方が古めかしい)が本格導入され、1970年代に飛躍的に計算スピードが上がった時代である。しかし、当時の大型計算機の計算スピードなど、今の最新パソコンの能力に比べればカメのようなものであった。1970年代のメインフレーム(大型計算機)の最速モデルでも、スピードはたかだか数MIPSだったそうである。※今のパソコンの高速モデルは数万MIPS以上の処理能力があると言われるので、当時は今の1万倍も計算に時間がかかっていたわけである。今のパソコンで1秒しかかからない計算に3時間も要するわけで、この差は大きい。先人はこのような環境でレンズの設計を行っていたのである。
とはいえ電子計算機の導入によって、計算時間が劇的にスピードアップをした意義は非常に大きかった。対数表と手回し計算の時代、1面の屈折計算に5分かかっていた1940年代に比べ、千倍から1万倍は計算速度があがり、レンズ設計の手法に質的な変化をもたらした。それが「自動設計」という手法である。これは簡単にいえば、レンズの面の曲率や間隔を各々微小に変化させて、各収差の変化量のマトリクス表を作成し、この表に基づいて、各収差を減らすような曲率やレンズ間隔を、計算機に求めさせるというものである。いってみれば、曲率や間隔をパラメーターとし、着目する収差の数だけの連立方程式を計算機に解かせるわけだ。
しかし、レンズの中で変化できる曲率や間隔の数に比べて、抑えるべき収差値ははるかに多いので、厳密に解ける方程式ではない。抑えたい収差がかえって大きくなってしまったり、性能を良くするとレンズの形状がおかしくなったり、やはりレンズ設計は試行錯誤の連続であることに変わりはない。それでも、従来設計者のセンスや勘に頼っていた試行錯誤の一部を、計算機が代行して高速に処理してくれることは、レンズ設計者にとって素晴らしい出来事であった。電子計算機の導入と自動設計の手法によるデータ処理は、ズームレンズの設計に必要な膨大な計算量と試行錯誤の時間を、実現可能な期間にまで短縮してくれたのである。
広角ズームの設計の難しさはもう一つあった。それは最適なズームのタイプがなかなか見出されなかったことである。皆さん、第四夜をひもといてみていただきたい。1963年発売のZoom Nikkor Auto 43-86mm F3.5である。このレンズのズームタイプは凸の1群、凹の2群、凸の3群からなる3群ズームである。そう、ズーム全体のパワー配置がトリプレット構成になっているのである。トリプレットタイプは、色収差を含む諸収差を全て補正のできる最小の構成と言われている。レンズの基本である。レンズ系全体を凸、凹、凸のレンズ配置にすることは、収差の補正を容易にする極めて効果的なやりかたで、設計者の樋口さんもこのトリプレット構成の効果を熟知した上で、このレンズの設計を行ったに違いない。このため、43-86mmは自動設計がなかった時代のズームレンズでありながら、実用的な性能を達成できたのである。しかしこの凸先行3群ズームにも欠点がある。それは広角化すればするほど前玉が巨大化することである。そのため、これ以上の広角化は困難であると予想された。
一方、今日広角ズームの基本となっている2群ズームはどうだろう?2群ズームは凹レンズ群の1群と、凸レンズ群の2群の間隔を変えることで焦点距離を変化させる。広角側では1群と2群の間隔は開き、望遠側では狭まる。広角側では、レトロフォーカス型の構成となるため、広角化にも有利な構成といえる。構成的にも簡単でよいのだが、ズームの配置にトリプレットの構成を持たないため、ズームによる収差の変動を抑えることが困難なのである。
世界初の2群ズームは、第四夜の最後に書いたように、1961年に発表までして発売されなかった、Auto NIKKOR WIDE-ZOOM 35-80mm F2.8-4である。樋口さんは、2群ズームという画期的な発明を手がけながら、なぜ43-86mmでは3群ズームタイプを採用したのだろう?それは2群ズームが潜在的にもつ収差変動補正の困難さにあったと思われる。事実35-80mmの設計データを見ても、望遠から広角にズームダウンするに従って、大きな非点収差の変動と歪曲収差の変動が見られる。発売中止の一端は、この広角側の性能の低さにもあったのだろう。この原因は、各群、とりわけ1群のレンズ配置が、1群で発生する収差を自在にコントロールできる構成になかったためであった。電子計算機のなかった時代、試行錯誤しながら1群の最適な構成を探索するための膨大な計算を行うことができなかったのだ。2群ズームを含む凹先行型広角ズームの発展は、電子計算機の登場を待たねばならなかった。
そしてようやくこのレンズの話になる。設計を担当されたのは水谷典雄さん。第十五夜登場の中村さんの下で、いくつかのズームレンズを設計された方である。設計は28-45mm発売の頃開始され、1976年の2月に完了している。そして性能確認の試作、量産試作を経て1979年発売された。水谷さんは、このレンズを設計したあと光学設計を離れ、別の部門に移られたので、私は直接面識はない。私が入社の頃にはまだ会社にいらしたはずであるが、お話を伺う機会がなかったのは残念である。
写真1にレンズ外観を示す。構成は図1のレンズ断面図の通り、1群が4枚、2群が7枚で構成された2群ズームレンズである。
第十五夜の28-45mmでは、3群ズームの構成とすることで、ズーム時に起こる収差の変動を補正していたが、このレンズでは1群の構成をゴージャスにすることで、2群ズームの構成で収差変動を抑えている。28-45mmの1群の構成と比較してみてほしい。28-45mmでは1群が2群3枚構成で、全体として薄く構成されていたのに対して、この25-50mmでは凹凸凹凸の4枚構成で、しかも全体に厚く構成されている。この1群の厚さとレンズの配置がポイントである。1群に凸凹凸のトリプレットの構造を含ませることで、歪曲を含む各収差を自在にコントロールできる構成となり、2群ズームの欠点であったズーム時の大きな収差変動を抑えることができたのだ。この1群の構成は、全てを球面レンズで構成する広角ズームレンズでは最小枚数といえ、その後のAi AF Zoom Nikkor 24-50mm f/3.5-4.5Sでも踏襲されている。
また2群の構成もトリプレットの構成を基本にしながら、ゾナータイプの思想をとりいれ、凹レンズの前側に4枚、後ろ側に2枚の非対称な構成とすることで、球面収差の良好な補正と、広角ズームにつきもののたる型歪曲収差を見事に補正している。後に設計されたレンズでは、この2群の構成は少し簡略化されているが思想は同じである。樋口さんの発明した広角2群ズームは、20年近い歳月を経て完成の域に達した。
作例の実写はD700で行った。30年以上前のレンズであるが、D700に取り付けてデザイン的にもしっくりくる。大口径中望遠のような、全長の長いやや大型のレンズであるので、高級機に取り付けた方がバランスが良いようだ。この長い全長は、機構的に「インナーズーム」になっているせいで、1群のレンズは、鏡筒先端のアタッチメントネジ(72mm)とは独立して内部で動く。このため、1群が後退する中間焦点距離から望遠側では、鏡筒先端がフードの役割を果たしてくれる。良好なコートとあいまって、ゴーストの少ないぬけの良い描写が特徴である。
まず驚かされるのが歪曲収差の少なさである。最もたる型歪曲の大きい焦点距離25mmの広角側でも、単焦点レンズにひけをとらない。水谷さんは「ズームレンズだから」と妥協することなく、単焦点レンズと同じ基準で設計を進めていったのだろう。作例1はこのレンズの25mm側、絞りF8で撮影したものだが、半逆光のビル群をクリアーにとらえている。
そして広角側のフレアーの少なさとコントラストの高さが素晴らしい。2群ズームは、ズーム中に絞りを含む2群が動くため、原理的に広角側で明るく、望遠側で暗くなってしまう。そこでこのレンズでは、ズームで絞り径を変化させることでF4の明るさを維持しているのだ。光学的にはF2.8-4のレンズを絞って使っているようなものであるから、水谷さんも収差をまとめるのに苦労したことだろう。そして広角側では、この1段絞っている効果でぐっとフレアーが減り、コントラストが向上しているのである。
作例2は焦点距離25mmの広角側、絞り開放のF4で撮影した夜景である。画面のごく周辺ではコマフレアーと像面湾曲による像のボケが見られるが、画面の主要部分はコントラスト高く描写されている。DXフォーマットのカメラでは写らない範囲なので、D300などでは開放から全画面ですきっとした写りが得られるだろう。このコマフレアーと像面湾曲はF5.6では大幅に減少し、F8でほとんど目立たなくなる。周辺光量は、さすがに広角側開放では四隅の低下が目立つので、その意味からもF8からF11に絞って使うのがよい。ちなみにこの周辺光量の低下は焦点距離28mmから35mmにズームすると、開放でもほとんど目立たなくなる。
一方、望遠側の50mm F4は文字通り「絞り開放」で使うため、球面収差によるわずかなフレアーが全画面に認められる。設計データ上も、球面収差が補正過剰となっており、これがフレアーを発生させているのだ。作例3をご覧頂きたい。これは作例2を撮った同じ場所から焦点距離を変え、50mm F4で撮影したものである。画面中心から窓の照明に滲みが見られ、画面周辺部ではそれに加えサジタルコマフレアーによって楕円形に歪んで広がっている。しかしこの収差バランスは、実際使ってみると好ましいと感じる。この滲みが柔らかな描写を生んでいるからである。
作例4は、サザンカのアップを50mm F4開放で撮影した。このわずかな滲みがある方が、花を柔らかく描写し、命を通わせる気がするのは私だけだろうか?ただ、画面中央左を見るときれいなリングボケが見られる通り、後ボケは二線ボケ気味なので、気になるシーンがあるかもしれない。この二線ボケとフレアーは同じ原因で発生するもので、F5.6に絞れば解消され、画面四隅を除いてフレアーのない画像となる。
このレンズ設計の後、水谷さんは設計を離れ、別の部署に移られたため、このレンズが水谷さんの最後の設計となる。別の職場に移ってからも開発進捗を気にかけ、このレンズの発売を誰よりも喜ばれたに違いない。25-50mmはその後、1981年にAi-S化され、後継モデルのAi AF ZOOM Nikkor 24-50mm F3.5-4.5Sが1987年に発売されるまで、約10年販売されるロングセラーレンズとなった。単焦点レンズに比べて、移り変わりの激しいズームレンズでは長寿のレンズといえるだろう。今でもこのレンズをデジタルカメラにつけて愛用している、というお便りをいただいたこともある。幸せなレンズである。