有名レンズの陰に隠れた銘レンズ
NIKKOR-P・C 10.5cm F2.5
第四十五夜は、引き続きニコンS用ニッコールのお話を致します。今夜はダンカン氏や三木淳氏の逸話で有名なニッコールP・C 8.5cm F2の陰に隠れた、もう1つの銘レンズを御紹介します。当時、ニッコールP・C 10.5cm F2.5はどういう評価を受けていたのでしょうか?はたして、どんな写りをするのでしょう?現在の市場では、どう評価されているのでしょうか?
今夜は、ニッコールP・C 10.5cm F2.5の秘密を解き明かします。
佐藤治夫
まずは、報告書と図面を紐解きましょう。ニッコールP・C 10.5cm F2.5を設計したのは、ニコンの誇る名設計者脇本善司氏です。報告書によると、設計完了は1949年のことでした。また、脇本氏は、その約2年前に、村上氏から引き継いだ8.5cm F2の改良設計を行なっていました。その仕事もひと段落し、ニッコールP・C 10.5cm F2.5の設計に取りかかったと思われます。この様な設計環境が、ニッコール8.5cm F2とニッコール10.5cm F2.5の性格を決定付けさせました。この8.5cmと10.5cmは同じゾナータイプであり、構成、硝材共に類似していました。そして、10.5cmの収差補正は8.5cmを更に精錬されたものになっていたのです。設計に使えたツールと言えば、対数表とそろばん、精々タイガー計算機に代表される手回し式計算機しかありませんでした。その知力と忍耐力を必要とした時代に、脇本氏は「女数」組(第四十三夜参照方)と力を合わせて、数々の名レンズを設計しました。氏が才能多き卓越した設計者であったことは言うまでもありません。
ニッコール10.5cm F2.5の量産図出図は1953年の新芽も芽吹く春のことでした。そして満を持して発売されたのは1954年の夏も終わりのころです。当時、100mmクラスの中でもっとも明るいレンズでした。このレンズは、1948年にすでに発売されていた8.5cm F2と人気を二分し、ベストセラーレンズとなっていきます。当時としては沢山売れたレンズのようで、生産量も多く、まさに看板レンズだったのです。愛用者は土門拳をはじめ、多くの巨匠、プロ、そして、多くのアマチュアに愛されました。現在でも8.5cm F2よりも10.5cm F2.5の方が市場に出回っています。価格も10.5cm F2.5の方が安価のようです。数の市場原理が働いているのでしょうが、その点10.5cm F2.5は実にお買い得なレンズであるといえます。
まず、断面図をご覧ください。このレンズは典型的なゾナータイプのレンズです。左から凸レンズ、凸凸凹の厚肉3枚接合レンズ、凸レンズの3群5枚の単純かつ理にかなった構成で出来ています。このタイプは、絞りに対して屈折力配置が非対称になっているのが特徴です。このゾナータイプの収差的特徴としては、球面収差は良好に補正できますが、色による球面収差の形状の差のコントロールが難しく、短波長(青~青紫)の球面収差が補正過剰になる傾向があります。また、非対称構造ゆえ、糸巻き型歪曲が発生しやすく、倍率色収差の補正も若干不利です。これらの収差の癖をいかにコントロールできるかが、設計者の腕にかかっているわけです。
それでは、ニッコールP・C 10.5cm F2.5はどんな写りをするのでしょう。収差特性と実写結果の両方から考察してみましょう。
まずは設計報告書を紐解きます。このレンズの特徴は、球面収差とコマ収差、非点収差の補正方法にあります。8.5cmと異なり、球面収差は若干アンダーコレクションになっています。これは背景のボケ味を良くする効果があります。また、近距離になればなるほど、ゾナータイプの特徴である近距離収差変動が発生し、球面収差と像面湾曲はアンダー方向に発生します。確かにシャープネスは低下しますが、独特の軟調描写になり、後ボケもより美しくなります。したがって、ポートレートや草花の接写にはむしろ適していると考えられます。また、このレンズはコマ収差にも特徴があります。画面の端の部分を除いて、若干内コマ収差が残存しています。これはシャープネスという尺度ではマイナスですが、高コントラストの被写体においては、フレアー成分による適度なコントラストの圧縮が発生し、特に銀塩の場合、ハーフトーンの再現性が、逆に向上する結果になっています。脇本氏のレンズを数点見てみると、内コマ収差を残存しているものにしばしば出会います。この収差補正には、脇本氏のなんらかの設計思想があったのかもしれません。謎は深まります。更に、このレンズの収差的特徴について続けましょう。像面湾曲は比較的少なく、ほのかにアンダーに傾いています。
注目したのが非点収差です。無限遠合焦時では中間域で若干大きくなっています。私は当初、「これはあまり良くないかな?」と思いましたが、理由がきちんとありました。ポートレート撮影領域ではぴたりと非点収差がなくなるのです。さすが脇本氏の設計です。撮影条件をよく考えて設計をされていると感じました。また特記すべきはディストーションでしょう。非対称光学系であるゾナータイプの泣き所なのですが、このレンズは0.5%という非常に小さい値におさまっていました。「苦手な部分だからこそ克服する。」先人たちのレンズを掘り起こすと、必ず出てくる設計思想です。私もこの思想を伝承しなければならないと、いまさらながら再認識いたしました。
次に、スポットダイアグラムで点光源の結像状態を観察します。
センターは点像のまとまりが良く、シャープな結像を期待させます。しかし、低像高位置では、内コマ収差の影響で、若干ほうき星状にフレアーが発生します。しかし、像高が増すにつれて内コマ収差は解消します。また、点像の形状に非点収差が若干確認できます。解像感は画面中心から周辺に至るまで、比較的均一です。フレアーの発生はむしろ低像高のほうが若干多めに発生します。
描写特性をまとめると、センター付近から周辺部分まで解像感もあり、シャープな結像をします。中心から中間部分は若干フレアーが発生する傾向があると言えます。また、点像のまとまりが良いので、素直な描写をするとも言えるでしょう。特に背景のボケ味にはアンダーな球面収差、像面湾曲は良い効果をもたらします。素直で良いボケ味が期待できます。
次に実写結果を見ていきましょう。
F2.5開放は、センター近傍はもちろん、ごく周辺を除いて、若干線の太さは感じるものの、解像感、コントラストも適度にあり、良好な結像状態をしています。フレアー感も思ったほどではなく、むしろ白黒フィルムには最適なコントラストの圧縮をもたらし好ましいと思います。また、見苦しい像の流れなどは無く、破綻の無い描写をします。設計値から予想した解像力、シャープネス通り良い印象があります。F2.8~4に絞ると、センターシャープな領域はさらに広がり、四方の隅までシャープな像を結びます。
結像性能と質感描写とのバランスが最も良い絞り値で、ポートレートでは最適なF値ではないかと思います。F5.6~8に絞ると、画面全域で解像力が向上し、画面全体にわたり均一で良好な画質になります。内コマ収差の影響があるのか、コントラストもちょうど良く、決して「ドンシャリ」のコントラストのきつい画像にはならず、階調豊かな描写をします。F11~32まで絞ると、回折の影響で全体にシャープネスが徐々に低下します。シャープネスを期待するなら、F5.6~8に絞り、ポートレートに向いた描写を望むのなら、F2.8~4で撮影するのが効果的かもしれません。近傍のシャープネスはさらに向上し、更に解像力が高まります。
それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。作例1はポートレートに用いた場合の作例です。背景のお花畑の描写(ボケ味)を確認しやすいように白黒フィルムで撮影しました。ピントの合った髪の毛やまつげの質感を見れば、シャープな解像感、適度なコントラスト、階調も豊富で自然な描写をしているのが理解できます。また、特記すべきは、背景のボケ味が良いことでしょう。作例では2線ボケの出そうなシーンですが、難なくクリアーしています。
作例2は植物の作例です。前後のボケ味を確認するためにこの作例を選びました。絞り開放で、比較的近距離で撮影しています。ピントの合っているところはやはりシャープで、解像力が高い描写をしています。肝心のボケ味ですが、前ボケ、後ボケ共に癖が無く良いボケ味を示しています。目だった2線ボケ等はありませんでした。
作例から分かるとおり、ニッコールP・C 10.5cm F2.5は、風景写真はもとより、ポートレートにも草花にも最適なレンズであるといえるでしょう。
今夜は設計者列伝ではありません。Sマウント用ニッコール10.5cm F2.5とFマウント用ニッコールオート10.5cm F2.5との関係に注目して、設計改良について考えてみたいと思います。
時代はニコンFが登場したころ、日本光学工業株式会社(現ニコン)では交換レンズのラインアップについて検討が重ねられていました。Fマウント用ニッコールをどうするか?当時の設計者は評判の良いSマウント用レンズの流用を視野に入れていました。問題はバックフォーカスでした。S型カメラは所謂一眼レフのミラーが無い。したがって、S用光学系はバックフォーカスの短いものが多かったのです。そのままFマウント用に転用できるのは13.5cm F3.5よりも望遠側のレンズでした。したがって、広角、標準の殆どが新設計です。しかし当時は、広角レンズの主流となるレトロフォーカスレンズは発展途上であり、実用的な超広角レンズを設計できるようになるには未だ期が熟していなかったのです。そこで、超広角2.1cm F4のみ、ミラーアップして使用する交換レンズとしたのです。そこで狭間になったのが8.5cmと10.5cmでした。
8.5cmはバックフォーカスが著しく足りず、断念しました。しかし、10.5cm F2.5はバックフォーカスをあと1~1.5mm伸ばせば、流用が可能でした。そこで脇本氏は最後のレンズの厚みを1.0mm薄くすることのみでバックフォーカスを確保し、Fマウント用ニッコールオート10.5cm F2.5としたのです。問題はこの変更を設計変更というかという点です。厳密に言えば、1.0mmの変更は製造誤差の範疇を遥かに超えておりますので、設計変更です。しかし、光学設計として、収差補正状態が変わっているかというところに注目した場合、元の光学系の素性の良さも助けになって、殆ど性能の違いが無い状態になっています。変更の程度としては、ポット修正(第四十四夜参照方)のレベルでしかないのです。この場合、積極的に設計改良したと言うよりは、最小限の変更で、光学系を流用設計したと考えるべきだと思います。言い換えれば、基本設計は脈々と伝承されていて、小変更が加えられたと考えた方が良さそうです。脇本氏の10.5cmは愛弟子の清水氏の105mmにバトンを渡すまで、およそ16年以上の長い間愛用されたことになります。
ニッコール千夜一夜物語をご愛読いただいているお客様に、色々な意見を伺っております。その中でも、「古いレンズの魅力は伝わるものの、そのものを使ってみたくても、どこにも無い。あったとしてもすごく高価だ。」と言われることがあります。特にSマウント用レンズは品薄状態で高価です。しかし、今回の10.5cm F2.5や13.5cm F3.5などはまだ比較的リーズナブルな価格で入手可能だと思います。また、今回の10.5cm F2.5の描写を体感したいのであれば、F用ニッコールオート10.5cm F2.5が狙い目です。収差バランスはほぼ一緒ですから、ゾナータイプの描写を体感できると思います。ただしF用10.5cm F2.5は絞りが円形絞りではないので、絞った時、特に逆光時や光源が写り込んでいる場合、印象が異なるかもしれません。
今後は皆さんがニッコール千夜一夜物語の内容を体感できるように、新しいレンズ、新製品も登場させようと思っています。乞うご期待。