35mm F2.8改良の歴史
Nikkor-S Auto 35mm F2.8 から<New>Nikkor 35mm F2.8
写真レンズの開発に完全はない。全ての収差を完璧に補正することは非常に難しいことであるし、たとえ性能が抜群に良くても、あまりに大きくてはユーザーに使ってもらえない。どんなレンズにも何かしら弱点があり、それを克服しようと日々改良が試みられている。
今夜は一眼レフ用35mm F2.8の改良の歴史についてお話しよう。
大下孝一
NEW Nikkorにモデルチェンジされるまで、長年生産されてきたNikkor-S Auto 35mm F2.8には、実は2つのタイプがあることをご存知だろうか?全く同じ製品名であったため、大きくアナウンスされてはいないが、発売から数年後に大幅なモデルチェンジがなされている。その経緯からお話をはじめよう。
1959年、Nikon Fの発売の2ヶ月後、最初の35mmレンズであるNikkor-S Auto 35mm F2.8が発売された。図1がそのレンズ構成である。このレンズは、テッサータイプのレンズの前側に、凹凸2枚レンズのフロントコンバータをつけたような5群7枚構成のレンズであった。このレンズは、初期のレトロフォーカスタイプのレンズのため、その後のレンズと比べ設計性能があまり高くなく、製造上も高い組立精度が要求されるレンズであった。そのため立ち上げに相当苦労したといわれている。Nikon Fと同時発売されず、2ヶ月遅れの発売になったのも、そんな苦労のあらわれかもしれない。
製造が難しく、生産数量が思うように伸びないのは大問題である。すぐさま生産性の向上と基本性能のアップを目指して、35mm F2.8の設計変更が試みられることになった。これまでの経験から、同じレンズタイプを踏襲しては大きな改善は見込めそうもない。そこでレンズのタイプを根本的に見直すことから開発がスタートした。そして何年かの後、ようやく完成したのが後期型Nikkor-S Auto 35mm F2.8である。図2にこのレンズ構成を示す。レンズ構成を一新させ、後群をガウスタイプのような構成とすることで、球面収差、コマ収差、像面湾曲をはじめとする諸収差を一段と低減させている。そして、このレンズによって生産性も向上し、35mmレンズは順調に生産ができるようになったのである。
この新型Nikkor Autoによって、一応満足すべき性能の35mmに仕上がったが、これで改良が終わるわけではない。後期型35mm F2.8発売後、1965年にはNikkor Auto 35mm F2が発売されるなど、レトロフォーカスタイプの優秀なレンズが次々開発されている時代である。こうした最新の技術を35mm F2.8にも投入しなければならない。
命題はレンズ枚数を減らすことと、さらなる性能の向上である。1960年代後半、この課題を解決する1つの設計案が報告書として残っている。しかし、結局このレンズの採用は見送られてしまった。それは、従来のNikkor Autoに比べて全長が長かったためといわれている。
改良型のレンズを発売するためには、製造に必要な治工具などを新規につくらねばならないし、製造ラインの組み替えも必要である。そうした手間をかけてでも、新規に生産する相当の理由が必要なのである。性能はもちろん、大きさなどの仕様、生産コストなど、全ての面で従来機種を上回る必要があるのだ。
その後、報告書のレンズを元に改良が重ねられ、6群7枚タイプのNikkor Auto発売から十数年を経て、ようやく完成したのが図3のレンズである。NEW Nikkor 35mm F2.8、1975年のことであった。このレンズは、6群6枚構成で、従来のNikkor Autoからレンズ枚数を減らしながら、一段と性能を向上させることに成功している。
余談であるが、私がまだ、このレンズ設計の仕事につくまでは、レンズ枚数が多いほど性能が良いレンズなどと単純に思っていたものである。もちろんこれは全くの誤りで、レンズの性能はレンズの構成枚数で決まるわけではない。確かにレンズの枚数が多ければ設計の自由度が増すが、設計者がその自由度を生かしてこそ優れた性能のレンズになるのである。また、レンズの枚数が多ければその分製造上の誤差が乗りやすくなるし、ゴーストやフレアも確実に増加する。実際にはレンズの枚数が少ない方が優秀なレンズなのだ。そんなわけで、レンズ設計者は、少しでもレンズ構成を単純にしようと日々努力しているのである。
繰り返しになるが、図1にNikkor Auto 35mm F2.8初期型のレンズ構成、図2にNikkor Auto 35mm F2.8後期型のレンズ構成、図3にNEW Nikkor 35mm F2.8のレンズ構成を示す。この3本のレンズ構成を見比べると、一眼レフ用広角レンズの進歩のあとがよくわかる。
最初のNikkor Autoは、テッサータイプのレンズにフロントコンバータを取り付けたような格好をしている。このような構成が、一眼レフ用広角レンズの原点であった。しかし、テッサータイプではフロントコンバータ部分で発生する諸収差を補正する能力が低く、性能が思うようにあがらなかったのである。
そこで新型Nikkor Autoでは、マスターレンズをガウスのようなタイプとして、球面収差、コマ収差、非点収差の補正能力を高め、性能を向上させている。別の言い方をすれば、あまり収差補正に寄与していない絞り前側の無駄なレンズを廃止して、その代わりに絞り後ろに凸レンズを追加し、レンズ形状を整えていったものとも言えるだろう。
そして、Nikkor Autoの2本のレンズから10年以上の歳月を経て開発されたNEW Nikkorは、レトロフォーカス型35mmレンズの決定版ともいえる洗練されたレンズ構成となっている。このレンズ構成の最大の特徴は、先頭の凹レンズの後ろに配置された厚肉レンズだろう。今まで空気間隔であったところをガラス材料で埋めることでレンズが小型化できる。このような厚肉レンズの効果は、超広角レンズの開発で見いだされたものであるが、その成果がこのレンズにも活かされているのである。そして、この2番目の厚肉レンズの前側の面を凹面、後ろ側の面を凸面で構成することで、特に歪曲収差を完璧に補正することに成功している。その他の諸収差の補正が優秀であることはもちろんだが、NEW Nikkor 35mm F2.8の最大の特徴は、歪曲収差がほぼ完全に補正されていることだろう。タル型歪曲収差が原理的に発生するといわれてきたレトロフォーカスタイプの欠点を、見事に克服したレンズなのである。
また、このレンズの前玉径の小ささには驚かされるが、実は周辺光量はNikkor Auto 35mm F2.8に比べ格段に増えている。これも厚肉レンズの恩恵のひとつである。
レンズの改良のあとを、描写面からもみてゆこう。紹介した3本のレンズを比較しようと考えていたのだが、初期のNikkor Autoが入手できず、後期のNikkor AutoとNEW Nikkorの2本の比較しかできなかった。申し訳ない。
後期のNikkor AutoからNEW Nikkorで改良された点の一つに、中間画角のコマ収差がある。作例1はNikkor Auto後期型とNEW Nikkorを比較した夜景写真である。このような夜景写真はF5.6~F8に絞り込んで撮影するのが一般的だが、レンズの特徴が出やすいように、F2.8開放絞りで撮影している。全体の小さな写真ではわかりづらいが、左下を拡大してみると、Nikkor Autoは中間画角で、点像が外側に向かって彗星状のコマが発生しているのに対して、NEW Nikkorにはそれが認められない。
そのためNEW Nikkorの方が開放からコントラストの高いシャープな写りが得られるだろう。この描写の違いは、画面中央を拡大するデジタルカメラに取り付けて撮影した場合には一層強く感じられる。
開放からシャープな写りのNEW Nikkorに対して、Nikkor Autoは、このわずかに残るコマ収差のため、開放では少しコントラストが低めである。しかしそれが被写体によっては上品で繊細な描写となり、このレンズの魅力のひとつとなっている。
作例2と3は、両レンズの背景ボケを比較したものである。
作例2はNikkor Autoの開放での写真である。このレンズの開放は、周辺光量の少なさを反映して、写真左上の旗にあらわれているように、周辺でラグビーボール状にボケが歪んでいる。そのため、シーンによっては背景が同心状に流れたように見えることがある。しかしこの欠点は少し絞り込むことによって改善されるだろう。一方作例3は、NEW Nikkorの開放での写真である。NEW Nikkorは、周辺光量が豊富なため、周辺のボケ像がラグビーボール状に歪むことはあまりない。その代わり、背景のボケの輪郭はNikkor Autoに比べて少し硬めな印象があり、この作例3でもボケのエッジが明るく立っていることがわかるだろう。これも少し絞り込むことによって、よりなめらかなボケとなる。このように違ったボケ味のレンズだが、皆さんはどちらのボケが好みだろうか?