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第三十四夜 NIKKOR-H・C 5cm F2

戦後の復興を支えたレンズ
NIKKOR-H・C 5cm F2

今夜は、S用/L用標準レンズNikkor 5cm F2を中心に、昔のニッコールレンズのお話をしてゆこう。

大下孝一

1、村上三郎氏

1945年、第二次世界大戦終結によって日本光学工業(現株式会社ニコン)は、それまで携わってきた軍需産業から民需産業へ、180度の方向転換を図ることになる。同年、双眼鏡やメガネレンズとともに、写真用レンズの生産が決定され、ライカマウント用5cm F3.5(1945年)を皮切りに、5cm F2(1946年)、13.5cm F4(1947年)、8.5cm F2(1948年)、3.5cm F3.5(1948年)、5cm F1.5(1949年)と次々にライカ用交換レンズを開発していった。

この6本のレンズについて社内ではこんな伝説がある。これら6本のレンズ全てを、村上三郎氏が1人で設計したというのだ。4年間で6本のレンズを設計するというのは、コンピューターが発達した現在においても驚くべき業績であるが、当時は電子計算機などもちろんなく、機械式計算機もタイガー計算機に代表される手回し式計算機しかなかった時代である。そんな離れ業ができるものだろうか?

それは戦前からの研究とデータの蓄積があったからであった。実は、6本のうち3本の標準レンズについては戦前のうちに設計が完成していたのである。5cm F3.5と5cm F2は1935年頃にハンザキヤノン用として設計されており、5cm F1.5についても1942年頃に設計を終えていたのである。この5cm F1.5は一般に写真用レンズとして販売されたかどうかは不明であるが、レントゲン間接撮影用レンズとして販売された実績があったようである。6本のレンズの開発は、実際は10年以上の歳月をかけたものなのであった。

戦前、写真用レンズの設計は研究部光学研究室(芦田研究室)が担当しており、村上氏はここで一貫して写真レンズの設計をされていたという。そのころの生産の主力といえば、軍需品の測距儀であり、潜望鏡や双眼望遠鏡であった。製造部門を持っていなかった研究部は、設計ができるたびに製造部門におねがいしてつくってもらわなければならない。「なんだ、お前たちまだ道楽をしておるのか。」と冷遇されたこともあったそうだ。しかし、それでもなお戦時中も地道に写真レンズの設計は続けられ、5cm F1.5をはじめとするレンズが設計されていったのである。

戦争が終わり、交換レンズの生産が決定された時、村上氏はさぞやうれしかったに違いない。「ようやくこれまでの努力が報われる時がきた。」この想いがわずか4年の間に3本のレンズを設計する原動力になったのだろう。当時はレンズ1面の屈折計算に5分から10分、今あるレンズの性能を把握するだけでも一日以上の時間がかかっていた時代であった。戦後4年で3本のレンズを設計したことだけでも大変な業績である。

2、5cm F2の開発

戦後の光学設計部門の復興は、設計データの収集と復元からはじまった。幸い大井工場は戦火を免れたというものの、戦時中の混乱で多くのデータが散逸してしまっていた。そこで東氏、村上氏を中心として、担当者のノートや資料の断片からデータを復元し、それをひとつの文書としてまとめていった。この文書が脇本氏、波多野氏に引き継がれ、設計報告書となったのである。

さて、標準レンズ5cmの3本については設計が村上氏であったため、データも無事見つかり、そのまま生産されることに決定した。ただし、5cm F1.5だけはガラスの在庫がなかったため、ガラスの溶解が立ち上がってから生産開始することになった。こうして5cm F2のレンズは無事生産が開始され、順調に立ち上がるかにみえた。

しかし生産開始から1年もたたないうちに、村上氏のもとに悪い知らせがとどく。「ガラスの在庫がなくなりそうです。」戦後再開された光学のガラス溶解は失敗の連続で、なかなか立ち上がらず、戦時中にあった在庫も底をつきかけていたのである。

よし、設計変更するしかない。ついに村上氏は決意し、ガラス在庫表をもとに一部ガラスを変更した設計データをまとめ、何とか生産をつなげたのである。ところが数ヶ月のうちにそのガラスも在庫が払底し、再度村上氏は設計変更をしなければならなかった。このゴタゴタは、ガラスの溶解が本格的に立ち上がった1948年にようやく収束する。そこで、この機会に村上氏は設計データを見直し、性能を一段とブラッシュアップさせた設計をまとめ、ようやく5cm F2は完成したのである。このように戦前に設計され、戦後順調に生産開始されたものの、生産が軌道に乗るまでにはさまざまな苦労があったのである。

3、レンズの構成

図1.Nikkor HC 5cm F2 レンズ構成図

NIKKOR-H・C 5cm F2は図1に示されるように、3群6枚構成の伝統的なゾナータイプのレンズである。前夜の第三十三夜で、佐藤治夫氏が初代ピカイチのレンズをゾナータイプのレンズとして紹介しているが、今夜の5cm F2はその祖先といえるだろう。

一見かなり違ったレンズ構成をもつ2つのレンズが、なぜ同じゾナータイプと言われるのか、そのゆえんを少し解説をしておこう。5cm F2のレンズの特徴は第2レンズから第4レンズを貼り合わせた3枚接合レンズである。光学的には、第2レンズと第4レンズに屈折率の高いレンズ、第3レンズに屈折率の低いレンズが使われているため、この接合レンズは、第2レンズの凸レンズ作用と第4レンズの凹レンズ作用を併せ持つレンズなのである。ここで第3レンズを極端に屈折率の低い材料、つまり空気に置き換えたものがピカイチのレンズなのである。

この3枚接合のレンズは、レンズ面の反射防止コーティングのなかった時代に、空気との境界面を減らしてレンズの透過率を増やし、ゴースト発生を抑える素晴らしい発明であった。しかしコートが発達したコンパクトカメラの時代には接合レンズにする必要がなくなったため、第2レンズが廃止され4群5枚の構成になったのである。

さて、このゾナータイプの特徴は、F2と大口径でありながら、比較的屈折率の低いガラスで構成した場合でも、広い画角にわたってコマ収差の補正が良好なことで、これが開放からコントラストの高い描写を生み出すもととなっている。反面、非対称性の強い光学系であるため、糸巻き型の歪曲収差の補正が困難なことと、当時の低い屈折率のガラスの組み合わせではわずかに非点収差が残っているため、ボケの形状にはやや難点がある。このNikkor 5cm F2についても背景のぼけが周辺で三角形になることがあり、描写の特徴の一つになっている。また、非点収差は絞り込みによる性能改善の効果ががゆるやかであるため、絞りによる性能変化は少ない。あらゆる絞りで安定した描写が得られるレンズといえるだろう。

4、レンズの描写

では、作例を元にこのレンズの描写をみてゆこう。作例は手持ちのライカLマウント用レンズとライカIIIfの組み合わせで撮影を行ったのだが、前玉にすり傷、中玉にややくもりのあるレンズのため、ハイライト部に意図しないフレアがかぶっていることがある点をご容赦いただきたい。

このレンズにはゾナータイプの特徴がよく表れており、開放からコマフレアが少なく、コントラストの高い描写をする。作例1は開放で撮影した夜景の写真である。画面周辺に、わずかに三角や矢印形状のコマフレアが認められるが、コントラストの高い写りであることがおわかりいただけるだろう。

作例2は、少し絞りこんでF4.5で撮影した紅葉の写真である。F4~F5.6に絞り込むと、開放で見られたコマフレアも画面の大部分で消え、さらにシャープ感のある描写になる。わずかに残る非点収差のため、細かい部分の解像はあまり向上しないが、コントラストがさらに増してゆく。この線の太さがニッコールらしい力強い描写といわれるゆえんかもしれない。絞りF4~F5.6では画面のごく四隅にコマフレアによる像の乱れが残っているが、F8~F11に絞り込むと、四隅の像の乱れも消え、非点収差の影響もなくなるため、全画面すばらしい描写となる。

ところで、ライカLマウントの5cm F2レンズには、距離計には連動しないものの、1.5feetまで繰出せるヘリコイドがついており、ちょっとした小物の撮影が可能になっている。作例3は50~60cmあたりの距離で、開放で撮影した。距離計には連動しないが、50cmあたりの近距離であればメジャーで計るなどの手段がとれるし、パララックスもカメラ全体の移動で対処が可能である。このレンズは、残存するコマ収差や非点収差の影響もあり、画面周辺でボケの形が三角形になる場合がある。一般的にはあまりいいボケとはいえないが、このような近接撮影ではボケが大きくなるためあまり目立ってはいない。ボケの形状は絞り込むことによって改善されるので、F4くらいまで絞って使うことをお勧めしたい。

村上氏の設計したこの6本のレンズは、双眼鏡などと共に、当時の日本光学の事業の柱であった。戦後すぐに開発の決まった小型カメラがニコンI型として完成したのが1948年。しかしその生産は思うようには上がらず、カメラの生産がようやく軌道に乗るのは1951年のニコンS型発売のころである。それまでの間カメラ事業を支えてきたのはこれら6本のニッコールレンズであった。その生産の中心にあった5cm F2は、まさに戦後の復興を支えたレンズといえるだろう。

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