ボケ味を追求した中望遠レンズ
Ai AF DC Nikkor 135mm F2S
第三十夜に引き続き、大口径中望遠レンズのお話をしよう。
カメラのオートフォーカス化によって、大口径中望遠レンズはどう変わっていったのだろうか?
今夜はその履歴を一つ一つ紐解いていきましょう。
大下孝一
結局、レンズのオートフォーカス化で一番割りを食ったのは大口径中望遠レンズであった。レンズをオートフォーカス化するには、モーターでレンズを駆動しなければならない。そしてそのためには、ピント合わせで動くレンズの重量を出来るだけ軽くする必要がある。重量級レンズの代表である超望遠レンズは、早くから一部のレンズの移動だけでフォーカスするIF方式に切り替わっていたし、望遠ズームレンズは前玉フォーカスが一般的だったので、動かすレンズの重量は大口径中望遠に比べればはるかに軽かった。そのため両レンズは比較的スムーズにオートフォーカスに移行することができた。しかし大口径中望遠レンズは、レンズ全体を動かすピント合わせが基本である。レンズの塊のような大口径中望遠レンズを高速に、スムーズに、精度良く動かす手段はなかなか見出されなかったのである。この制約は、同じようにレンズのオートフォーカス化を進めていた他社も同様で、大きなレンズをどうやって合焦させるかが、まさに設計者にとって大きな重荷になっていたのである。
そこに彗星のごとく登場したのがAF Nikkor 85mm F1.8S(1988年発売)である。このレンズは図1のように、一見普通のガウスタイプの光学系のように見えるが、3枚の後群だけを動かしてフォーカスすることのできる、いわば「新ガウスタイプ」のレンズであった。第二十三夜に登場したF3 AF用 80mm F2.8も同じように、ガウスタイプの後群だけを動かすレンズであるが、後群の前2枚のレンズと最後のレンズを別のスピードで動かす必要があったため、メカ機構が複雑になるという問題が残されていた。このAF 85mm F1.8は、この課題を克服しながら、F1.8の明るさを達成することができたのだ。AF 85mm F1.8は、AF大口径中望遠レンズ開発にとってまさに救世主のような存在だったのである。
このAF 85mm 1.8の設計者は、私にとってすぐ上の先輩にあたる。もともとレンズの品質保証部門出身であったので、レンズの評価に造詣が深く、仕事を離れても趣味として写真を楽しむ方であった。私も焦点距離や収差の測定など、いろいろなことを教わった。また氏はユーモアと芸術的センスを併せもった人で、例えば、写真プリントに吹き出しをつけたり、ハサミで切り貼りしたりして、職場旅行の記念写真を今のプリクラのようなフォトコラージュに仕立ててしまう。皆その仕上がりにびっくりしたものであった。
当時は、画像処理など一般的でないフィルムカメラ全盛の時代である。まだ設計者として駆け出しだった私は、初めて知る写真の楽しみ方に、目を開かれる思いであった。そんな先輩が、大口径中望遠の開発を通じてボケ味の研究をはじめたのは、ごく自然なことだったろう。
どんなボケが美しいのか?それを実現するために光学系で何をすればいいのだろう?ボケの形が球面収差と密接な関係があることは、今までのいろいろな研究でわかっていた。球面収差を補正不足に残存させると、背景ボケの周囲にフレアがとりまいて、理想とされる背景ボケが得られるのである。しかし、これには2つの問題があった。1つは、球面収差を補正不足にすると、前景のボケがリングボケや2線ボケになってしまうことである。つまり前ボケと後ボケの両立はできないのだ。そしてもう1つは性能の劣化である。球面収差を残存させるということは、球面収差ゼロの状態に比べてシャープさを損ねてしまいかねない。
ならば、いっそ収差をわずかに変化させることで、ボケ味を変えるレンズが作れないだろうか?これなら、シャープさを求める人にも、前ボケを作画に使いたい人にも、柔らかい背景ボケを求める人にも受け入れられる理想のレンズが出来るのではないか?彼はガウスタイプのレンズデータを丹念に検討し、どうすれば他の収差を悪化させることなく球面収差の形状だけを変化出来るのか調べていった。そしてガウスタイプの前側の群の間隔変化で、実現出来ることを見いだしたのであった。AF 85mm F1.8で確立されたリアフォーカス方式と、ボケ味コントロール(DC)の2つの発明が組合わさって、1991年、初のオートフォーカス135mm F2レンズ、AF DC Nikkor 135mm F2Sが誕生した。
このレンズは図2に示されるように、6群7枚構成の変形ガウスタイプである。しかし、図1のAF 85mm F1.8のレンズ構成と比べると、全体に長く構成されている。特に前玉とその後ろのレンズに大きな空気間隔があり、かつ前玉が接合レンズで構成されていることが特徴である。元々ガウスタイプは、良好な色収差の補正が特徴であるが、この前玉の接合によって、さらに軸上色収差を良好に補正している。
「どうです、美しいでしょう?この接合レンズがいいんですよ。」と、先輩はレンズ断面図をみせながら解説してくれた。ニコンの光学設計者はレンズ断面図の美しさを重視している。それは、レンズの形状が理にかなっており、光がレンズの各面をすなおに通過する光学系が、収差のまとまりがよく、製造誤差に強いことを感覚的に知っているからだ。ボケ味だけでなくレンズ形状の美しさも追求していたのである。
また、ピント合わせはAF 85mm F1.8と同様に、ガウスの後群3枚だけを繰り出すことによって行われる。レンズ全体を移動させるのに比べて1/4以下のレンズ重量であるため、高速のピント合わせが可能になっている。
さらに、接合の前玉と、その後ろの凸凹レンズの間隔を変化させることによって、非点収差や色収差などを悪化させることなく、球面収差だけをわずかに変化させて、前後のボケ味をコントロールするのである。球面収差は、DCリングがセンター位置にある時にはほぼゼロに補正されており、結果的に収差のバランスは、各収差を極限まで補正した超望遠レンズのバランスに近い。これはDCを効かせない状態では出来るだけ高性能に、かつ前後のボケをできるだけ「素直な」状態にしておくためである。この点が、背景ボケを良好にするため、球面収差をわずかに補正不足に残していた今までの中望遠レンズとは異なる、このレンズの個性となっている。
そして、DCリングをR側に回すと、後ボケのエッジを柔らかくするように球面収差が補正不足になり、F側に回すと前ボケの輪郭がよりボケるように球面収差が補正過剰になるのである。
このように、完成したものを解説するのは簡単だが、完成までの過程では目に見えない苦労があった。フォーカスで移動する後群の重量をできるだけ軽く、かつ移動量をできるだけ小さくするよう検討を重ね、最初の試作品では1.2mであった至近距離を1.1mに短縮した。また、シミュレーションと実写の両面から、最適な球面収差量を各絞りごとに一つひとつ決めて、目盛りを刻んでいったのである。ボケ味を可変するというのは初めての試みであったため、一度の試作では決まらず、実写を重ねながら微調整を繰り返し、F5.6までのDC目盛りを刻んだ。DCリング自体はF5.6よりもさらに回転するが、それは元々F11までの目盛りを刻む予定であったからである。結局、絞り込むとボケが小さくなり効果が乏しいため目盛りは廃止になったが、めいっぱいリングを回した時のソフトフォーカス効果も面白いよねという遊び心から、ストロークを削らずにそのまま残している。所有されている方は、DCリングを過剰に回したときのソフト効果もぜひお試しいただきたい。
作例を元にこのレンズの描写を見てゆこう。作例1は、このレンズの特性を生かした開放描写である。DCリングはR2にセットしたので背景のぼけがなめらかになっている。一方前景には一部にリングボケや二線ボケが出ているのがわかるだろうか?しかし前ボケは後ボケに比べボケ量が大きいのではっきり目立つケースは少ないかもしれない。
そして作例2は、DCリングをセンターにセットし、F5.6に絞り込んだ遠景描写である。曇天を背景にした木々の枝は、フレアの多いレンズではつぶれてしまいやすい被写体だが、空に溶け込むことなくくっきりと描写されている。135mmレンズは被写界深度が浅く、F5.6に絞り込んでも背景のビルはややボケているが、非常に素直なボケであることがわかるだろう。
またこのレンズは、ぜひデジタルカメラでも使っていただきたい。撮影したその場でDCの効果が確認できるのはデジタルならではのメリットで、より一層DCレンズの面白さが堪能できるのではないだろうか?作例3は、D50に取り付け、開放絞りで、DCリングをR2.8に設定して撮影した。過剰にDCリングを回しているので、パソコン上でピクセル等倍で見ると、ピント面にもフレアがかかっているが、それがソフトフォーカス的な効果をあげて秋で色づいた葉をやわらかく見せている。
このレンズの発売後、着々と大口径中望遠レンズの開発が進められ、1993年にはAi AF DC Nikkor 105mm F2Dが、そして1995年にAi AF Nikkor 85mm F1.4Dが発売され、現行の中望遠ラインナップが完成する。マニュアルレンズ時代と同等のラインナップを開発できたのは、AF 85mm F1.8におるリアフォーカス方式の発明によるところが大きかった。そして、DC 135mm F2では、初めてボケ味をコントロールするという機能を組み込み、大口径中望遠レンズの魅力をさらに高めることができたのである。ノクトニッコールの回でノクトのことを「初めて描写性に付加価値をつけたレンズ」と書いたが、このレンズはその思想をさらに推し進めたものといえるだろう。明るさだけでない大口径レンズの面白さと、設計者の遊び心がつまったレンズである。