ノクトの思想を受け継いだレンズ
Ai AF Nikkor 28mm F1.4D
第十六夜にお話したノクトニッコールの続きをお話しよう。
前回のAi 35mm F1.4と近い焦点距離だが描写の性格が異なる広角レンズ、Ai AF Nikkor 28mm F1.4Dである。
大下孝一
前夜お話した35mm F1.4の開発を終えて、すぐに28mm F1.4の開発がスタートしたわけではない。35mm F1.4と28mm F2を開発した経験から、これより広角のF1.4大口径レンズの開発には大変な困難が予想されたからである。それは難しい収差の話になってしまうが、サジタルコマフレアという収差の補正がさらに難しくなるためだ。第十六夜のノクトニッコールでもお話したが、このサジタルコマフレアとは、大口径レンズや広角レンズを開放にして夜景や星などを撮影した時に、画面周辺の点光源の周りに鳥の羽を広げた形状に広がるフレアのことで、レンズを大口径にするほど、そして広角にするほど顕著に発生する性質がある。
このサジタルコマフレアを効果的に補正するには非球面を使う必要があることがわかっていたが、高精度な非球面の大量生産技術はまだまだ未熟であった。1968年発売のOPフィッシュアイによって非球面レンズの量産化に成功したものの、大口径レンズに応用するためにはさらに非球面の精度を高める必要があった。
この状況に転機をあたえたのが、1977年発売のノクトニッコールである。研磨による非球面製作という今から思えばとても大量生産に適しているとは思えない非球面製作法ではあったが、ともかくこのレンズを量産化できたことは、光学設計者と非球面レンズ技術者にとって大変うれしく、そしてまたエポックメイキングな出来事だったに違いない。よし、次は広角で大口径レンズをつくろう!設計者にも、非球面製造技術者にも、今までにないレンズを開発しようとする機運がみなぎっていた。こうして28mm F1.4開発がスタートしたのである。
このレンズの開発では、光学設計と非球面製造方式検討が並行して進められた。光学設計で最適なレンズタイプや非球面の形状を探索しながら、同時に非球面製造部門では、その非球面レンズを加工するのに最適な新しい非球面加工方法の検討を進めてゆく。そして、非球面加工部門の情報を反映させながら、レンズ設計を進めていったのである。
こうして28mm F1.4のレンズ設計が完成し、同じく非球面レンズ加工でも、精度や生産性を飛躍的に向上させた「精研削非球面加工」が開発された。この精研削非球面加工はこのレンズの他、AF20-35/2.8にも使われている非球面加工法である。そして開発スタートから数年を経て、ようやく28mm F1.4の試作品が完成したのであった。
ところがこの試作レンズの量産化に品質保証部門からストップがかかってしまった。理由は性能が期待されたほど良くなかったからである。当時の社内の評価報告によれば、性能は28mm F2と同程度、そして近距離性能がよくないとある。今も昔も品質保証部門の評価結果には逆らえない。ニッコールレンズの品質は彼らの厳しい目によって支えられているのである。
ふり出しにもどってしまったこのレンズの設計は後輩達の手に委ねられた。ニコンでは光学設計の担当は1人で、1つの製品の設計スタートから量産化まで担当するのが通例であるが、このレンズは延べ4人の光学設計者が携わり、そして苦心の末ようやく完成した。1994年、スタートからおよそ10年かかっての発売であった。
図1は28mm F1.4レンズの構成図である。このレンズの特徴は、絞りの直前に配置された曲率の強い両凸レンズと、一見してそれとわかる「非球面度」の強い非球面レンズだろう。また難しい収差の話で申し訳ないが、最初に説明したサジタルコマフレアは、曲率が強い凹面で発生すると考えられており、そのため前群に凹レンズを多数配置する広角レンズではサジタルコマフレアの補正が困難なのであった。そこでこのレンズでは、各凹レンズの曲率をできるだけ弱めるとともに、曲率の強い凸レンズと非球面レンズを配置して、巧みにサジタルコマフレアを補正している。
そして、このレンズのもう一つの特徴は、複雑なフォーカス方式である。24mm F2.8で採用された近距離補正方式をさらに発展させたもので、この複雑なフォーカスによって、近距離の非点収差だけでなく、球面収差とコマ収差も良好に補正している。光学設計には「自由度」という言い方がある。ひとつの間隔変化や曲率の変化で、ひとつの収差が独立に補正できるという考え方である。フォーカスするためには1つの間隔を変化させる必要があり、その他に球面収差、コマ収差、非点収差を補正するには4つの間隔を変化させる必要があったのである。こうして試作品の性能面での問題を克服し、高性能なレンズができあがった。
最後にこのレンズの作例を紹介しよう。
作例1は、新聞やTVなどでも話題になった2001年のしし座流星群の写真である。普通の星なら、赤道儀という星の日周運動を追尾する装置にとりつけ、長時間露出で星の光を蓄積することによって、肉眼では見えないような暗い星まで写すことができるが、流星の光っている時間は非常に短い時間のため、高感度フィルムと、大口径レンズがどうしても必要となる。しかも流星はいつどこに流れるか予想がつかないため、構図の中に流星を収めるためには出来るだけ広い画角のレンズが有利である。28mmの広い画角と、F1.4の明るさを兼ね備えたこのレンズはまさに流星を撮るために生まれてきたようなレンズである。作例1は絞り開放で撮影した。周辺の明るい星でわずかにサジタルコマフレアによる青白い光芒が見られるが、ほとんど目立たないことがおわかりいただけるだろう。ただ、星の写真を絞り開放で撮影すると周辺減光が目立つ場合がある。流星写真以外では1~2絞り絞り込んで撮影した方がよい結果が得られる。この作例ではネガフィルムをスキャナーで取り込み、コントラストを上げ、周辺光量も補正している。
作例2は夜景の写真である。点光源の星の写真ではわかるサジタルコマフレアも、この作例ではさらに目立たない。開放でも絞っても、シャープな描写の得られる使いやすいレンズである。筆者が思うにこのレンズは、広角版のノクトニッコールとして作られたレンズではなかったか。だからこそ最初の試作品にNGの判断があったのだと思う。一絞り明るいF1.4の開放で、定評ある28mm F2と同程度の性能ならOKという考え方もあったろう。しかし、当時この開発に携わっていた技術者達はそれでは納得ができなかったに違いない。せっかく高精度の非球面レンズを使ったのだから、ノクトニッコールのような、今までにない性能のレンズを追求していたのである。28mmという焦点距離は、広角のスタンダードであり、またD70SやD2Xといったデジタルカメラに取り付けた場合は42mm相当の画角となり、デジタル一眼の大口径標準レンズとしても使いやすい。デジタル時代になってますます使う機会の増えている愛用の一本である。