もっとも明るい35mmレンズ
Ai Nikkor 35mm F1.4S
デジタルカメラのレンズが2回続いたので、今夜は話を元に戻して一眼レフ用ニッコールに戻ろう。
35mm F1.4、このレンズは私がニッコールと出会うきっかけとなった憧れのレンズである。
大下孝一
なぜこのレンズが憧れのレンズであったのか、しばらく昔話におつきあいいただきたい。
私が本格的に写真を始めるきっかけとなったのは、以前にもお話したことがあるが、星の写真である。1960年代後半から1970年代前半、アポロが月面に降り立ち、持ち帰った月の石が大阪万博に展示され、宇宙ブームに沸いていた時代である。当時小学生であった筆者も、両親にねだって買ってもらった小さな天体望遠鏡で、月のクレーターを飽きずにながめ、ベランダから見えるプレアデス星団の瞬きに心を躍らせていた。そんな少年時代愛読していたのが、藤井旭氏の天体写真集の本である。この本の中には当時珍しかったカラーの美しい星座の写真がいくつも載っており、その写真の撮影データに、定番のように載っていたのがニコンFと今夜の主役Nikkor 35mm F1.4レンズの組み合わせであった。
高感度のネガカラーフィルムが一般化している今と違い、当時はカラーフィルムといえばリバーサル、ISO64(当時はASAと言っていた)のエクタクロームやISO100のフジクロームの時代である。今のISO800のネガカラーの約1/10の感度で、かすかな星の光をとらえねばならなかったのだ。加えて、くわしい方ならご存知のことと思うが、フィルムには長時間露出になると、絞りを1段絞るとシャッタースピードが2倍で同じ濃度という法則が崩れ、さらに多くの露出をかけないと同じ濃度にならない「相反則不軌」というやっかいな性質がある。そのため当時のカラーの星の写真は、F1.4の開放で30分から1時間の露出をかけてじっくり撮影されていたのである。しかも相反則不軌があるので、F1.4のレンズで30分露出ならF2のレンズでは1時間露出をかければよいというものではない。F2のレンズではさらに長時間露出が必要で、より暗いレンズではカラーの星座写真は実質撮ることができない時代であった。
「星のカラー写真はニッコール35mm F1.4でなければきれいに撮れないんだ。」こうしてニコンFとNikkor 35mm F1.4のレンズの名前は私の心の中に刻み込まれたのである。現在大口径レンズというと、ボケを生かした描写で使われるケースが多いが、当時はF1.4の明るさが必要なシーンがあり、このレンズでなければ撮れない写真があったのである。
話は、F発売前後にさかのぼる。第三夜にとりあげられたW-Nikkor 3.5cm F1.8を1段明るく再設計しようという計画がもちあがった。1956年発売当時は世界最高の明るさを誇っていたこのレンズも、他メーカーからより明るいレンズが発表され、さらなる明るさの向上が求められていたのである。実際1960年代半ばごろS用の35mm F1.4のレンズが設計され、試作化されたことが報告書に残っている。このレンズは、SPの後継機用のレンズとして開発されたものであったが、SP後継機開発中止と共に中断され、残念ながら幻のレンズとなってしまう。しかし、35mm F1.4という仕様はそのままニコンF用レンズに引き継がれ、一眼レフ用として新たに開発がスタートしたのである。
W-Nikkor 3.5cm F1.8がそうであるように、レンジファインダー用の広角レンズは、大口径といえども標準レンズ並の大きさである。そこでこのレンズも標準レンズと変わらない大きさ、同じ52mmのアタッチメントサイズが目標とされた。設計を担当されたのは清水義之氏である。当時レンジファインダー用のレンズとしては同種スペックのレンズはあったが、一眼レフ用としては初めてのスペックである。また、大口径レンズはほんのわずかなレンズ収差の乱れで性能が出なくなってしまう。設計面でも製造面でもたいへん苦労されたに違いない。2度の試作を経てようやく目標の性能が出た時には開発スタートからおよそ5年の歳月が経過していた。こうして1971年に発売となったこのレンズは、24mm F2.8で採用された近距離補正機構と、ニッコール初のマルチコーティングが搭載されている。世界で初めての一眼レフ用35mm F1.4レンズにふさわしい、当時の日本光学の技術の粋を集めたレンズであった。
このレンズは図1に示されるような7群9枚構成のレトロフォーカスタイプのレンズである。このレンズの特徴は同じような凹レンズが2枚配置され、一番最後の凸レンズが3枚に分割されていることだろう。レンズの明るさを明るくするにはレンズの径が大きくなる。そしてレンズの径が大きくなると、そのレンズで発生する収差が大きくなる。そこで、一番先頭の凹レンズを2枚で構成し、今まで2枚で構成されていた最後の凸レンズを3枚にすることで、レンズの曲率を弱め、各レンズで発生する収差を最小に抑えるよう設計されている。そして補正しきれず残った収差を、絞りをはさんで配置された2枚の接合レンズで補正する、たいへん合理的な構成である。
特に絞りの前側の接合レンズを厚く構成することで、28mm F3.5レンズにあった一番先頭の凸レンズを省略し、前群を2枚の凹レンズだけで構成した点が秀逸で、この構成でなければアタッチメントサイズ52mmの35mm F1.4レンズは実現できなかったと思われる。ニコンがアタッチメントサイズの統一に、どれだけ力を入れていたかが伺い知れるレンズ構成である。
さてこのレンズはどんな描写をするのだろう?私も仕事柄、色々なカメラやレンズで写真を撮っているが、このレンズほどフィルムやシーンによって多彩な表情を見せるレンズはあまりお目にかかったことがない。レンズのテストをする時、社内ではさまざまな感光材料で評価を行っている。モノクロフィルム、カラーリバーサルフィルム、カラーネガフィルム、そして最近ではこれにデジタルカメラでの評価が加わる。このように色々な感光材料で評価をするのは、レンズの描写がフィルムによって変わるからであるが、このレンズはそれが実によくわかるレンズではないだろうか。
モノクロやカラーネガでは開放時、ベールをかぶったような、それでいて細かい部分の解像もある、線の細い独特な描写をする。その秘密はかなり大きなサジタルコマフレアにある。ハイライトに発生してる淡いコマフレアによって全体のコントラストが下がり軟調な階調となるのだ。ところがこのレンズで夜景をカラーリバーサルで撮影すると、意外にも開放からすきっとしたぬけのよい画像に驚かされる。
作例1を見てみると、カラーリバーサル撮影でもサジタルコマフレアが写っているが、それほど目立たないのはプリントが前提のネガフィルムとリバーサルフィルムでは階調特性が異なり、光源の芯がしっかり写るからであろう。また、フラットなシーンを開放付近の絞り値で撮影すると、このコマフレアの影響であろうか、少し湿った感じの質感が出て、人物の肌を生き生きと表現してくれる。さらにこのレンズは、絞りによっても大きく描写が変化するレンズでもある。サジタルコマフレアは少し絞り込めばほとんどなくなるため、1段絞るごとにコントラストが増し、F4~5.6まで絞り込めば作例2のように、ニッコールらしい高コントラストの切れ味するどいレンズになる。個人的には開放から半段絞り込んだあたりの繊細な描写が魅力だ。
このレンズは1971年の発売以来、鏡筒の変更や最新のスーパー・インテグレイテッド・コーティングの搭載を経て現在に至るが、実は鏡筒デザインがNEW-Nikkorに変わる時、光学系に変更が加えられている。レンズの基本構成は変わっていないが、綱島輝義氏の手によってガラス材料やレンズの曲率が変更され、開放時の性能を向上させている。30年以上の長きにわたり愛用されてきた裏には、完成してなお改良を続けていた先人の努力があったのである。今は唯一のスペックでなくなったこのレンズだが、未だにアタッチメントサイズ52mmの35mm F1.4は類を見ない。一眼レフ用で最も小型の35mm F1.4のタイトルは当分このレンズのものだろう。