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第二十三夜 AI AF Nikkor 80mm F2.8S

新時代到来、一眼レフシステムが変わった日
AI AF Nikkor 80mm F2.8S

今夜はオートフォーカスシステムの創成期に開発されたニッコールレンズのお話です。オートフォーカスは、今ではポピュラーな技術です。しかし、20年前には、各社の開発者がこぞって研究開発を行なった最新技術でした。最近カメラを始めた方の中には、まさか露出やピントを自分で合わせる時代があったとは思わないのではないでしょうか。時代は銀塩フィルムカメラからデジタルカメラへと変貌をしつつあります。しかし、いつの時代も、どんな製品にも創成期があり、その時代には技術者たちのユニークな知恵と努力、苦難と歓喜がありました。
今夜はそんな新時代の幕開けに立ち会った人たちと、その努力の結晶AI AFニッコール80mm F2.8Sについてご紹介いたしましょう。

佐藤治夫

1、F3AFとAFニッコール

すでにベストセラーとなっていたF3がAFシステムを搭載し、F3AFとして登場したのは1983年4月の事でした。この時、レンズ内部にモーターと電装部品を組み込んだ、AI AFニッコール80mm F2.8SとAI AFニッコールED 200mm F3.5Sが同時発売されました。今まで交換レンズの主役は光学系(ガラス)でした。しかし今日では、電気回路やモーター、光学系、鏡筒部品の3つが、まさに“三本の矢”のように、交換レンズに無くてはならない主要部品になってきます。その意味でも、この2本のAFレンズは、まさに20年後の未来を見据えた姿になっていました。もちろん、画質を追求したこだわりは、他のニッコールにも勝るとも劣らないものでした。

鏡筒設計者、電気設計者は光学設計者の画質に対する妥協無い主張を受け入れながら、モーターや電気回路を配置し、他のレンズ同様の大きさや使い勝手を実現する為に知恵を絞ったのです。当時の同業他社のAF用レンズは、レンズの一部に大きな四角い出っ張りを持っていました。しかし、我々の先輩たちは“レンズは円筒形でなければだめだ!出っ張りを無くし、なんとしても全て鏡筒内部に収める!”という設計者魂を共有していたのです。まさに三本の矢が集結して、ありったけの知恵を搾り出し、このAFレンズが誕生したのです。この2本のレンズが現在のAFニッコールの礎となったことは言うまでもありません。

2、開発履歴

それでは、AI AFニッコール80mm F2.8Sの開発履歴を紐解いてみましょう。光学設計は昭和56年(1981年)の夏に完了していました。非常に早い時期からAFシステムの構想・開発がスタートしていたことが分かります。光学設計を担当したのは、当時の光学部第一光学課に在籍していた藤江大二郎氏です。普段の藤江氏は非常に温和で明るい方です。藤江氏の趣味は写真でした。氏は撮影のみならず、大学時代から自ら現像・プリントし、毎年自作の白黒カレンダーを作成するほど情熱を注いでいました。氏は卒業後に大学時代の仲間と写真サークルを作り、今でも作品を作り続けています。私もお仲間に入れていただいた時期がありましたが、さまざまな職種の方から近しい業界人まで、個性的なメンバーによって構成されていました。氏の写真に対する造詣の深さや豊富な経験はこのあたりからも吸収されていたのだと、妙に納得した事を覚えています。

また、氏はカメラレンズばかりではなく、エルニッコール、産業用レンズ、ファインダー光学系、さらに装置に組み込まれる光学系の設計も担当されていました。特に装置に組み込まれる特注レンズの設計技術には目を見張るものがありました。氏はその功績によって2001年に“アカデミー賞(アカデミー科学技術賞)”を受賞します。日本の技術者は表舞台に立ち、功績を称えられることが少ないように思います。その意味でも、この受賞は日本の技術者にとって非常に光栄なニュースでした。氏は奥さんを連れてアメリカのビバリーヒルズに行き、まさに映画俳優のようにリムジンに乗りアカデミー賞を受け取ってきたのです。氏もさぞかし嬉しかったに違いありません。

3、描写特性とレンズ性能

AF Nikkor 80mm F2.8断面図

少々難しい話が続きますが御容赦ください。まずは断面図をご覧ください。まさしく典型的ガウスタイプのレンズであることがご理解いただけるでしょう。しかし、ただのガウスではなかったのです。このレンズの最大の特徴はフォーカシング機構にあります。一般にガウスタイプは、絞りに対してレンズの屈折力の対称性が良いので、撮影距離の変化による収差変動が比較的小さいという特徴があります。したがって、十数年前にはマイクロ(又はマクロ)レンズと言えば、ガウスタイプを基本にしたものが多数派でした。しかし、近距離撮影時のコマ収差の劣化、球面収差の劣化はレンズタイプ特有の性質で、より高性能かつ大口径を実現するには、設計者がもう少し知恵を絞る必要がありました。また、モーターでレンズを駆動するAFシステムでは、フォーカシングで移動するレンズをできるだけ軽量化したかったのです。

藤江氏が出した解答は近距離補正をしながら後群のみで合焦するユニークなリアフォーカス方式でした。この新しい発明は非常に画期的なものでした。合焦の主役は最後の凸レンズです。しかし、この1枚の凸レンズのみの移動では特に像面湾曲と非点収差の変動が抑えられません。そこで氏は、各レンズの屈折力を最適化し、絞りより後方の接合凹レンズを独立移動させる事により、近距離収差変動の補正を行なう事を考えついたのです。私の記憶では、リアフォーカス方式を採用したガウスタイプを商品化したのは、このレンズが最初ではなかったかと思います。藤江氏の発明は少々時代が早かったのかもしれません。その後時代はAF全盛期を迎えます。氏の発明にやっと時代が追いついてきたのです。氏の設計思想はAI AFニッコール85mm F1.8S、AI AFニッコール85mm F1.4D (IF)と受継がれ、現代でも脈々いき続けています。

それでは、AI AF ニッコール 80mm F2.8Sはどんな写りをするのでしょうか。まずは光学設計書を紐解いて見ましょう。このレンズの収差補正は非常に優秀で、大きな欠点が見つかりません。まず、球面収差が小さくあえてアンダーコレクションに留めてあります。また、像面湾曲は若干マイナスに残存していますが、非点収差が非常に少ない特徴を持っています。コマ収差も非常に良く、色収差も非常に小さい量に収まっています。また、藤江氏の考え出した近距離補正方式の効果は絶大でした。近距離で最周辺の像面湾曲が微小変化するだけで、非点収差の変化が殆どありません。これはポートレートや物撮り時の好ましい描写特性と良好な調子再現に効果的です。また、背景のボケ味を良好にする条件でもあります。藤江氏の脳裏には「理想の描写特性の追求」という思いがあったに違いありません。藤江氏は自分の趣味を通じ、自分の理想的な写真レンズの描写のイメージを持っていたのです。私はこの報告書を紐解いて、このレンズにも強い設計思想を感じました。

それでは、遠景実写結果と設計値の両方から描写を考察してみましょう。絞り開放から最小絞りまでの遠景実写では、深度の違いによるボケ以外にFナンバーを特定できないほど、開放から非常にシャープで高精細な像を結びます。著しいフレアーもなく、高コントラストで一見マイクロニッコールの描写と見間違えます。絞るにつれて、若干硬調になる傾向があると思います。したがって、ポートレートは絞りを開け気味にして、風景では絞り気味に撮影すると好ましい結果を得られるかもしれません。さすがに、F16~32では回折の影響で徐々にシャープネスが低下していきます。

次に作例写真で描写特性を確認してみましょう。作例1、2は開放絞り(F2.8)、撮影距離は1~2mで撮影した作例です。作例1は順光状態で撮影しています。瞳に写った風景やまゆ毛の描写から明らかなとおり、非常に高解像力と豊富な階調を持っていることがわかります。髪の毛が溶け入るようなボケからはボケ味も良好な事がうかがえます。

次に作例2を観察してみましょう。作例2は逆光時の描写特性を評価する為に撮影した作例です。レースのカーテンを通して非常に強い西日が被写体にふりそそいでいます。まず、肌のうぶ毛肩部の服の繊維に注目してください。非常に高解像で忠実に再現している事が分かります。しかも、強烈な半逆光状態でも、非常にヌケが良く、フレアーゴーストも発生していないことが分かります。むしろ、この状態でも硬調さを感じさせるほどです。最良のシャープネスを望むのなら、最適なレンズだと思います。しかし、残念な事にF3AF用交換レンズは、F3AF、F-501、F4以外のAFカメラ、F-601Mおよびデジタルカメラに使用できません。

藤江大二郎という人

普段の藤江さんはとても明るく、気さくな人で、自己主張が控えめなタイプでした。そんな藤江さんがアカデミー賞(アカデミー技術賞)を受賞するという話が、各職場に伝わったとたん、電話の嵐になりました。「おめでとう!」「良くやった!」という言葉に混じり、「○○○さん(俳優)のサイン貰って来て!」だとか、「○○○さん(俳優)の生写真ください!」なんていう女性社員からの電話も多数あったと伺っています。このエピソードに藤江さんの人柄が窺えます。

みんな、“藤江さんが、あのアカデミー賞俳優と同じ舞台に立つの?”と興味津々。しかしアカデミー技術賞は、俳優がもらうアカデミー賞と別の日に表彰式が開催されたのです。残念なことに、女性社員の願いは露と消えてしまいました。しかし、帰国した藤江さんは、「あの有名俳優と同じ(種類の)リムジンに乗って帰ってきたよ!」と、少年のような満面の笑み。いつまでも変わることのない悪戯っ子のような好奇心と探究心。藤江さんの仕事と写真にかける情熱の源はここにあったのです。

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