安価なレンズにこそニッコール魂が宿る
Nikkor-T 10.5cm F4
今夜も第十九夜に続き、ニコンS型カメラ用ニッコールレンズのお話しです。巷で高値を呼ぶこの珍品レンズは、コンシューマー層を仮想顧客とした、ニコンとして初めての望遠レンズだったのかもしれません。このレンズには、ニコンの廉価版レンズに対する取り組み方の源があります。
先人たちが情熱を傾けた、廉価版ニッコールレンズの歴史と描写特性についてご紹介いたしましょう。
佐藤治夫
巷では、このレンズのことを“マウンテンニッコール”と呼んでいます。もちろん、この名はニコンが命名したのではないのですが、なかなか上手いあだ名だと思いませんか。恐らく、このレンズがライツ社のマウンテンエルマーに似ていたことから、誰ともなく呼び始めたのではないでしょうか。しかし、“マウンテンニッコール”の設計思想は本家のマウンテンエルマーとは、まったく違うものでした。
このレンズの光学設計は、何を隠そう、第十九夜の「NIKKOR-S 8.5cm F1.5」と同じ、脇本善司氏によるものでした。全く描写特性の異なるこのレンズが、同一設計者の手によるものだと知り、今更ながら脇本善司氏の写真レンズに対する造詣の深さを感じました。
それでは、ニッコールT 10.5cm F4の開発履歴を紐解いてみましょう。量産図面の出図は昭和34年の師走のことでした。なんと当初は、Sマウント用以外に、エギザクタ用、プラクチカ用も計画されていました。しかし、残念ながら計画は中止になっています。待ちわびたS型カメラ用ニッコールT 10.5cm F4の発売は、新芽も芽吹く昭和35年の春のことでした。価格は、「NIKKOR-P 10.5cm F2.5」の約半分、サイズも携帯に最適なほどダイエットされた“お買得レンズ”でした。使い勝手の良い望遠レンズを、性能を維持したまま、安価で小型軽量で携帯性の良いレンズは出来ないものか?そんな思いを開発者たちは抱いていたのです。当時の交換レンズで“三種の神器”と言えば、3.5cm、5cm、10.5cmでした。したがって、このレンズの登場により、“廉価版三種の神器(3.5cm F3.5、5cm F2、10.5cm F4)”のラインナップが完成したのです。
今も昔も、廉価版レンズの商品化で問題になるのは、性能と価格のバランスです。日本には“安かろう、悪かろう”という言葉があります。
巷の安価な商品の中には、コストを下げるために、あたかも品質も下げてしまったかに見える商品もあります。皆が期待を裏切られた時、こんな言葉を口にしたのです。しかし、ニコンのモノ作りは、この言葉とは全く逆の発想です。昔からニコンには“広く世間の人に使っていただく廉価版商品は、上位機種にも勝るとも劣らない性能を有していなければならない。”という心意気ともいえる考え方があります。なぜなら、低価格商品はコンシューマー層のお客様の殆どが手にする商品になるわけです。それがレンズの場合、その1本の廉価版ニッコールレンズの品質こそが、全てのニッコールの品質を代表していると思われてしまうからです。多くのお客様に満足していただくには、開発者が一生懸命に知恵を絞って、価格と性能を両立させなければなりません。それは最高級品を開発するよりも、ある意味難しい試練なのです。そんな、時代を超えた開発者の思いが、このレンズに宿っていました。まさに、ニッコールの名と共に脈々と受け継がれている設計思想に他ならないのです。
少々難しい話が続きますが、御容赦ください。まずは、断面図をご覧ください。まさしく典型的トリプレットタイプであることがご理解いただけるでしょう。トリプレットタイプとは、文字どおり凸凹凸の3枚の単レンズからなる対物レンズの総称です。このレンズタイプはペッヴァール和と2つの色収差、ザイデル5収差を同時に改善できる最小枚数の設計解です。したがって、安価なコンパクトカメラに組み込まれるレンズの、代表選手だったのです。我々光学設計者の教科書には、必ずと言って良いほど、このトリプレットレンズの考察が載っています。言わば、トリプレットは対物レンズの原点なのです。
しかし、このレンズタイプには構造的な欠点があります。それは、広角化と大口径化には不向きだということです。一方、F値を欲張らない安価な中望遠に使用するのであれば、まさしく最適なレンズタイプなのです。この商品に、レンズ枚数が少ないトリプレットタイプを選択したことにより、小型化、軽量化、低価格化が達成できたのです。しかも、良好な光学性能も維持し、更に少枚数化はゴーストフレアーの減少によるヌケの良さ、最適なカラーバランスをもたらしたのです。
それでは、ニッコールT 10.5cm F4はどんな写りをするのでしょうか。まずは光学設計書を紐解いて見ましょう。このレンズの収差的な特徴は、いわゆる“脇本バランス”になっていることでしょう。球面収差が若干過剰補正になっています。したがって、半絞りも絞り込めば、非常にシャープな結象になります。
また、倍率色収差が極端に少なく、ディストーションも殆どありません。また、画面のごく周辺を除いて非点収差が非常に小さく、まさに若干絞って使えば最高の描写特性が得られるような設計になっています。この10.5cm F4と8.5cm F1.5を比較すると、脇本先生がおっしゃっていた“必ずしもこの収差バランス(=脇本バランス)は最適ではない。”と言う言葉を理解できます。すなわち、“レンズにはそれぞれ使い道がある。レンズの収差バランスはその使い道の数だけある。”と言う事です。この収差バランスからも明らかなように、10.5cm F4は明るさよりシャープネスやハンドリングを重視した商品コンセプトに、巧みに適合した設計になっていることが理解できます。
それでは、遠景実写と設計値の両方から描写を考察してみましょう。絞り開放では若干フレアーは残存しているものの、半絞りから一段絞る事で、高コントラストでシャープな描写に転じます。F5.6~11では絞りによる性能変化が殆ど感じられません。F16~22では回折の影響でシャープネスが低下します。
したがって、F5.6~11で最適なシャープネスが得られると思います。次に作例写真で描写特性を確認してみましょう。作例1は開放絞り(F4)、撮影距離は至近近傍で撮影した作例です。若干柔らかいですが、適度なコントラストと程よい解像感があり、後のボケ味も案外良好なことが分かります。作例2は屋外撮影の作例です。絞りはF5.6半で撮影しました。
描写は柔らかさが殆ど消え、高コントラストでシャープな描写をしています。非常にヌケが良く、若干硬調になる傾向も持っているようです。いずれにせよ、“安かろう悪かろうの商品”には程遠い、ニッコール品質を十分に持ち備えた“お買い得レンズ"であったことは間違いありません。
今夜は設計者列伝ではありません。ニコンの新人教育のお話をいたしましょう。我が光学設計部門には伝統的な基礎教育システムがあります。光学の教育では、光線追跡に始まり、近軸理論、収差論等のいわゆる「お勉強」をします。また、その一方でレンズ設計の実践の手ほどきを受けます。私も新人のころは、諸先生、諸先輩の肩をお借りしました。しかし、どんな人が教師になろうとも、必ずと言って良いほど、トリプレットの設計手ほどきを受けるのです。スペックは決まって105mm F4からスタート。このスペックが完成すると、更なる広角化や大口径化を検討し、レンズタイプの限界を見極めます。おそらく、脇本先生のニッコールT 10.5cm F4の完成度が非常に高かったので、新人教育の良い“お手本”になったのではないかと、私は思っています。
そして、さらに実習は続き、数々のレンズタイプ、更にズームレンズの設計実習を重ねていくのです。しかも、実習の殆どが現在の便利なツールを使わず、伝統的な計算方法で行なわれます。設計者はこの体験で、いやというほど収差補正の難しさや、レンズタイプの壁を知るのです。
ニコンの光学設計の歴史は、こうして脈々と受け継がれているのです。いくらツールが便利になろうとも、自動設計が進化しようとも、そのツールの限界を超えなければ、新しい発明はありません。まさに設計者が基礎的で、柔軟かつユニークな発想ができるかどうか、それがこの“限界”を越えられるかどうかの重要な鍵になるのです。