木村伊兵衛の懐刀
Nikkor-S・C 8.5cm F1.5
第十九夜は、久々にニコンS型カメラ用ニッコールレンズの登場です。このレンズはニコンの大口径中望遠レンズの源流にあたります。
今夜は、先人たちが情熱を傾けた、銘ポートレートレンズの歴史と描写特性についてご紹介いたしましょう。
佐藤治夫
流星のごとく輝き、そして昭和の時代を駆け抜けた二人の写真家がいました。その双子星は誰有ろう、土門拳、木村伊兵衛の両巨匠です。シャープネスとドキュメンタリー精神を追求した土門拳氏が、35mm判から大判レンズにいたるまで、ニッコールを愛用していたのに対し、人間性や生活観を表現したスナップ名手・木村伊兵衛氏はライカ使いの達人として有名でした。
巷では、「土門拳氏は男性的で力強い写真を撮り、木村伊兵衛氏は、女性的で粋な写真を撮る」と評判でした。そんな土門拳、木村伊兵衛の両氏が生涯愛用し、幾多の名作を生んだレンズが、実はこの「ニッコール 8.5cm F1.5」だったのです。“ライツのレンズが人物写真に最適”とか“ニッコールは硬くて、人物写真に向かない”と言う巷の俗説は、この両巨匠によって悉く打ち砕かれたのでした。
それでは、ニッコール8.5cm F1.5の開発履歴を紐解いてみましょう。光学設計を初めに手がけたのは、第七夜でご紹介した村上三郎氏でした。最初の試作図面は昭和25年7月に出図されています。当初からニッコール8.5cm F1.5の光学系は、2組の3枚接合レンズを持った、典型的なゾナータイプでした。後に光学設計は第一夜でご紹介した脇本善司氏に引き継がれ、更なる収差改善が成されました。記録によると、昭和25年から昭和27年までに8回の出図が行われています。
光学系の異なる試作品が7種類存在したと記録されています。驚く事に、その7種類の試作品の中には、F1.4の光学系や4枚接合レンズを使用した大胆な設計案もありました。当時の開発者は幾多の試作を繰り返したのです。さぞかし膨大な量の収差測定や実写を繰り返した事でしょう。そして2年の開発期間を要し、この銘ポートレート・レンズが世に出たのです。脇本先生も今回ばかりは、苦労されたに違いありません。ご存命ならば、きっと興味深い苦労話を伺えたことでしょう。
まず、断面図をご覧ください。おやっ?と思うほど、ニッコール5cm F1.4に良く類似しています。このレンズが典型的なゾナータイプである事は、一目でお分かり頂けると思います。
ゾナータイプの特徴の源は、そのレンズのパワー配置にあります。ゾナータイプのパワー配置はテレフォトタイプになっています。したがって、この構造をとる以上、大画角は望めませんが、比較的小型で大口径化が可能です。ちなみに、社の内外を問わず、一眼レフ用85mm F1.4はガウスタイプを基本構成にしています。そのため、ゾナータイプのレンズより高性能化が図れました。しかし、ガウスタイプを採用すると、大型化は免れません。まさに、この違いが「レンズタイプによって基本的な性質が決まる」と言う証なのです。また、ゾナータイプには近距離収差変動が大きいと言う特徴があります。すなわち、至近に近づくにつれて、像が甘くなりフレアーが増すのです。この一見欠点とも思える特徴が、ポートレートや物撮りに上手くマッチし、絶妙な描写特性を得ているとも言えるのです。
それでは、ニッコール8.5cm F1.5はどんな写りをするのでしょうか。収差特性と実写結果の両方から考察してみましょう。少々難しい話が続きますが、御容赦ください。
このレンズの収差的特徴は、第1に球面収差にあります。設計手法として、後群レンズのストッパー面(3枚接合中の曲率の強い面)を活用したことに最大の特徴があります。このストッパー面は、負の高次の球面収差を発生させます。その作用によって、過剰に発生するフレアーを相抹消させているのです。まさに、「毒をもって、毒を制す」収差補正方法です。この補正方法はボケ味に対して、非常に影響があります。良し悪しは設計者の腕次第という事です。また、第2の特徴は非点収差の補正状態でしょう。非点収差は、丁度ポートレートの撮影距離範囲で減少するように設計されています。
また、絞り込んだ場合、F2~2.8まで絞っただけでフレアーが消え、シャープネスが向上する特徴があります。更に絞り込んだ場合、F5.6~8では、ゾナータイプ独特のシャープで硬調な描写特性を持っています。開放近傍ではポートレート、絞り込んで風景写真と、まさに「一粒で二度おいしいレンズ」です。
このレンズの描写特性をまとめると、「開放近傍では柔らかく線の細い描写特性を持ち、豊かな階調と綺麗なボケ味が期待できる。また、2段絞っただけで目立ったフレアーは消えて、シャープで適度なコントラストを持った描写特性に変化する。そして、F5.6~8まで絞り込むと、高コントラストでシャープな描写特性に変貌するレンズ」と言えるでしょう。
実を言うと私は、実写や解析作業をするまで、このレンズがニッコール5cm F1.4と同様の描写特性を持っていると思っていました。すなわち、開放はフレアーがベールのように取巻いて、絞り込むことによって刻一刻と描写が変化し、徐々にシャープに変貌するレンズだろう……と。ところが、収差補正は優秀で、フレアーが目立ったのは開放近傍のみでした。実写結果も満足行く出来栄えでした。計算機すらない当時の開発者が、写真作法やボケ味まで考慮しながら、非常に優秀な収差補正を行っていた事に私は驚きました。それと同時に、今更ながら脇本先生の偉大さを痛感しました。
それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。作例1は開放絞り(F1.5)、撮影距離は約1.5mで撮影した作例です。階調が豊かで柔らかさの中にも程よい解像感があり、前後のボケ味も良好なことが分かります。その割にコントラストも比較的高く、フレアーの量が絶妙で、非常に美しい好感の持てる描写特性であることが、お分かりいただけると思います。作例2は前後のボケ味の良さを示す作例です。この作例を見ていただければ、多くを語らずともボケ味の良さはお分かりいただけるでしょう。
@nifty上のフォーラムに、“SNIKON・ニコンの広場(ニコンステーション)”という、当社がお客様同士の情報交換の場として、ご提供させて頂いているフォーラムがあります。ニコンステーションには、テーマ別に幾つかの会議室があります。会員の皆さんはお互いを、ユニークなハンドルネームで呼び合っています。土偶さん、ARIさん、ROCKEさん(以下全てハンドルネーム)を始め、多くの会員の方々が実に濃い会話を展開しています。各会議室では、多くのFC(ファンクラブ)があり、オフ会もしばしば開かれているようです。何を隠そう、この第十九夜は、ニコンステーション会員の丸前さんにレンズをお借りして書き上げたものなのです。私は長年このレンズを欲しいと思っていました。
しかし、高価なうえ、数が少なく、入手できませんでした。そんな折、丸前さんと知り会うことができて、この第十九夜が完成したのです。何と!丸前さんはお会いした事もない私に、高価なレンズを、「信用貸し」してくれたのです。ニコンステーションがなければ、この回は存在していないかもしれません。
SNIKONの皆さんにお会いして、お一人、お一人が写真やカメラを愛し、ニコンに信頼と期待を持ってくださっている事を肌で感じました。その願いに如何したら答えられるか?開発者としての責任と使命を感じました。私はこの経験を大切にしたいと思います。