対称型大口径広角レンズ
W-Nikkor 3.5cm F1.8
第三夜はS・L(M39)マウント用交換レンズ、「W-Nikkor 3.5cm F1.8」を取り上げます。
このレンズは昭和31(1956)年9月に発売された、世界でもっとも明るい広角レンズでした。
佐藤治夫
時代的にリンクするカメラボディは「Nikon S2」です。しかし、翌32年に「SP」、翌々年に「S3」が発売されていますので、「SP」および「S3」の仕様・コンセプトにリンクして開発されたものだと想像します。
光学設計は当時設計部の副長技師(=次長に相当)東秀夫(あづま ひでお)氏によるものです。最終設計完了は昭和30(1955)年の冬でした。東氏は、第一夜で取り上げた脇本善司氏の師にあたる存在で、数々のS・L(M39)マウント用レンズの設計者でもあります。東氏の業績は大きく、“ニッコールレンズの収差バランスの礎を築いた”と言っても過言ではないと思います。
東氏の活躍した時代、それはドイツのベルテレ博士(Dr. Ludwig BERTELE)が名を馳せる時代でもありました。目立つ事を嫌う日本の名設計者は、一般に知られる事がありません。しかし、その足跡と偉業は数々のパテントと報告書によって辿る(たどる)事が出来ます。東氏はこの大口径広角レンズの発明を昭和31(1956)年に特許出願し、1959年に米国特許(U.S. PAT.)を取得しています。この大口径広角レンズが、新しいレンズタイプの発明として認められたのです。現にこの時代の3.5cmレンズはF3.5~F2.5が主流で、F2より明るいレンズは世界初でした。ライツをはじめ、他メーカーの相当製品の発売までには、更に1年から5年の開発期間を要する事になります。当時の設計者の道具と言えば、そろばんと対数表です。気が遠くなるような膨大な計算量と時間。強靭な精神力と、より優秀なレンズ設計への意気込みが、当時の設計者を支えていたのでしょう。
第一夜に続き、少々難しいお話をしますがご容赦ください。
まず、「W-Nikkor 3.5cm F1.8」の断面図(<図1.>)をご覧ください。このレンズもクセノタータイプ、ガウスタイプ等の対称型レンズ構成を基本としていることが理解できると思います。
構成は向かって左側から、凸レンズ、凸レンズと凹レンズの接合レンズと続き、絞りに続いて凹レンズ、凸レンズと配置されています。ここまでがクセノタータイプの構成になっています。外観的には今までのクセノタータイプと類似していますが、設計的には当時新開発されたLa(ランタン)系ガラス材料を全ての凸レンズに用いて、球面収差と像面湾曲を改良し、鮮鋭度と像面平坦性を格段に改良しています。
そして、このタイプの最大の特徴は、最後に位置する接合レンズの存在です。このダブレット(凸・凹2枚の接合レンズの意)の存在によって、明るいレンズにはつきものの球面収差とコマ収差が改善されました。また、倍率の色収差(周辺部分の色ズレ・色のにじみ)の補正も著しく改善されています。更に、フィルム面に近い凹レンズは、フィールドフラットナー(像面を平坦にするレンズ)としての効果も持ち備えていたのです。
本来、単純なガウスタイプ等で画角62度を越える高性能写真レンズを設計する事は困難です。しかもこの時代に、他に類を見ないほどの大口径広角レンズを発想し、製品化した事は驚くべき事でしょう。後発メーカーのレンズを見ても、東氏の発想が優れている事が理解できます。なぜなら、後発メーカーのレンズは基本的にガウスタイプから抜け出していないからです。
それは、2枚、3枚とレンズをむやみに接合して、個々のレンズ面で発生する収差を打ち消す設計方法を採用しているからです。東氏の発明は製造し易さの点、小型化の点からも一歩抜きん出ています。
この東氏の発明したレンズタイプは、後に幾つかのレンズの手本になりました。その後、時代は一眼レフ繁栄の時代となり、忘れ去られてしまいました。しかし、博識の読者はお気づきかもしれません。最近になって、このレンズタイプを受け継いだレンズが登場したことを。最新設計のレンズが、結局このレンズタイプに行き着いたところに、このレンズの優れた潜在能力が感じられます。東氏もきっと名誉に思っていることでしょう。40年以上たっても手本になりうる、そんな発明を残せた事を。
「W-Nikkor 3.5cm F1.8」はどんな描写をするのでしょう?以前述べた通り、評価については個人的な主観であり、相対的なものです。参考意見としてご覧ください。
このレンズは前記の通り、対称型の特徴を持ち備えています。したがって、ディストーションが少ない事は周知の事実です。また、高解像力を得るために必要な条件である、倍率の色収差が少ない事も特記すべきでしょう。また、周辺まで像面が平坦で、非点収差も極めて少ないという特徴を持っています。
絞り開放周辺では、若干コマフレアによるコントラスト低下があります。しかしながら、それでも、わりあい解像力があり、俗に言う線の細い描写をします。いわゆる古い時代の収差バランスの傾向が表れています。また、対称型広角レンズの宿命でもある、周辺光量低下が発生します。ポジフィルム等を用いる時には問題となるかもしれません。また、最も特徴的な事は、点光源が不自然に歪まない事でしょう。夜景等でネオンなどの光源が写り込んでも不自然な描写をした記憶がありません。したがって、開放絞り近傍のボケ味も柔らかく、良好です。
それでは、作例写真をもとに各絞りごとの描写特性を述べたいと思います。
F1.8~2では解像力が割合あります。コントラストは若干低く、薄くベールのかかったような、柔らかい描写をします。ごく周辺部分を除き均一なフレアーが発生して、適度にコントラストを圧縮させて豊かな階調を生みます。また、非点収差が少ないために周辺の流れもありません。周辺光量は若干不足を感じますが白黒写真の場合、あまり気になりません。
<作例1.>は、絞りf/2~2.8における作例写真です。
f/2.8~4の描写は解像力、コントラストともに、より向上します。特に画面中央部分は非常にシャープになります。しかしながら、柔らかさは失われません。周辺光量も改善され、問題の無いレベルになります。<作例1.>写真では浴衣の男性の足元、床、タイル等にピント面があります(シャッタースピードが遅く、部分的に被写体が動いていますがご容赦ください)。また、背景のボケ味も良好で、点光源が著しく変形していないことがわかります。室内や夜のスナップ、ポートレートにはf/2.8~4ぐらいの描写が適していると思います。
f/5.6~8においては、更に鮮鋭度が増し、全面均一で良好な描写性能が得られます。階調の豊かさと高解像力とが融合された特性は、決してコントラストの強すぎるガリガリの描写にはなりません。絞りf/5.6~8では野外のスナップ、風景写真に適した描写が得られると思います。
f/11~22も同様の傾向です。ここまで絞るとコントラストの強い写真になりがちですが、3号の白黒印画紙を使用し、ストレート焼きで仕上げても空のトーンが飛んだ記憶がありません。
<作例2.>はf/11で写したものです。ストレート焼きにもかかわらず、トタン板の階調が良好に再現されている事が分かります。ゴーストに関しても、邪魔になって困った経験がありません。同クラスの大口径広角レンズに比較してレンズ枚数も少なく、極端にきつい面も無いので、ゴーストに対しても良好な結果が得られます。
第一夜「Nikkor-O 2.1cm F4」は、オールドレンズファンには好評を頂いたようです。今回も第一夜に続き、かなり古いレンズを取り上げましたが、いかがでしたでしょうか。次回からはもう少し新しいものも取り上げて行きたいと思います。ご期待下さい。