「disguise」は、わたしが投げ出された現実と、風景にまつわる作品である。スイスは第二次世界大戦中、「Réduit」と呼ばれる軍事政策を1940年から44年にかけて行った。当時グイザン将軍は、スイス国内の神話において重要な場所であるRütliにおいて、兵隊に対して軍事政策を伝えるために、1940年7月25日に「Rütlirapport」を発表した。「Réduit」によって大量に作られた陣地壕とトーチカは、アルプスの山に溶け込むようなカモフラージュによって隠されたのだった。カモフラージュには、神話と政治が近づいた時間と人間の矛盾が、今も染みついている。
「Réduit」によって作られた風景は、過去をとどめているだけでなく、現在も続く、ウィーン会議において生まれたスイスの永世中立国という目に見えない政治的立場と、国境を共有している隣国の思考さえもが表象した姿であると私は思う。
(宮田 恵理子)
ヨーロッパのほぼ真ん中に位置するスイスはドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、リヒテンシュタインの5カ国に周囲を囲まれている。「永世中立」を保持するこの国を象徴する風景には、国土の約6割を占める雄大なアルプス山脈、そしてヨハンナ・シュピリの小説に描かれ、日本でも1974年に放映されたアニメ作品「アルプスの少女ハイジ」に登場する牧歌的な風景を思い浮かべる人も多いだろう。
作品《disguise》もそんなアルプス地方で撮影された写真である。しかし、よく見ると写し出された荒涼とした山肌に点在する建物は、どこか奇妙であることに気がつく。
一見すると自然の一部のように見えるものは、実は人間の手によって作られたトーチカと呼ばれる要塞や大砲などを備える軍事施設である。山小屋や民家のように見える建物もまた、軍事的な遺構、あるいは現在も機能し得るトーチカの一部だ。その風景の綻びに気がついた瞬間、目の前の風景は不穏なものへと一転する。そこにはもはや牧歌的で崇高な象徴としてのアルプスの姿は霞み、どこか不気味な物々しささえ感じられる。
宮田が捉えるこれらの風景は、客観的な記録写真ではない。むしろ作者の戸惑いと思考のプロセスを内包しているのだ。写真に収めることで安易に解決しようとするのではなく、写真を手がかりにしながら問いへの歩みを深めていく。
「永世中立」の一方で国民皆兵制があり、軍需物資輸出も増加傾向にある国の矛盾と綻び。宮田は写真を通して容易にカモフラージュしきれぬものや人間の作り出した構造の脆弱性について思考し、対象との距離を的確に選びとることによって、写真に不思議な臨場感を与える。つまり風景写真の中に作者の思考のプロセスと身体性が同時に刻まれているのだ。
また、特筆すべき点として、展示も作者の心の動きを表現する装置として、抑揚の効いたバランスで空間が作られており、宮田の表現者としての視座を感じさせる非常に完成度の高い展示であった。そのことも今回の伊奈信男賞の受賞に相応しいと選考委員一同が判断した所以である。
(選評・小高 美穂)
<伊奈信男賞 最終選考に残った候補作品は次の通りです>
石川 幸史 写真展「The changing same」(2022年2月22日~3月7日、ニコンサロン)
若山 美音子 写真展「マグノリアの香り」(2022年3月8日~3月21日、ニコンサロン)
新田 樹 写真展「続サハリン」(2022年5月31日~6月13日、ニコンサロン)
山岸 剛 写真展「Tokyo ru(i)ns 」(2022年11月1日~11月14日、ニコンサロン)
宮田 恵理子 写真展「disguise」(2022年11月29日~12月12日、ニコンサロン)
1993年生まれ。東京芸術大学美術学部先端芸術表現学科卒業後、 Zurich University of the ArtsにおいてMaster Fine Artを修了。第46回江副記念リクルート財団奨学金生。チューリッヒに留学中、デリーの Shiv Nadar UniversityとCity University of Hong Kongにおいて行われた研修に参加。主な展示に2023年「Artists in FAS 2022」(藤沢市アートスペース)、2022年「SCREEN」Rubí International Photography Festival 2022(ルビー・スペイン)、個展「disguise」(Nikon Salon・東京)、「OFF GRID」(ウィーン・オーストリア)など。2023年「Japan Photo Award Vol.10」Antonio Scoccimarro (Mousse Magazine 編集長) 賞を受賞、2022年「PITCH GRANT」グランプリ受賞、IMA next「OTHER HISTORIES」グランプリ受賞。