英 伸三写真展
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文革の残影 -中国 江南の古鎮を訪ね歩く-
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11/26 (木)
~12/2 (水)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休
写真展内容
1965年の夏、中国側の呼びかけで行なわれた日中青年大交流に日本ジャーナリスト会議代表団の一員として作者ははじめて中国を訪れた。日中の国交が正常化される7年前のことで、北京、上海などの都市や農村を約一カ月間まわり、工場、人民公社などの生産現場で社会主義国家の建設に励む人々の姿を撮影した。
その翌年の5月、毛沢東共産党主席によってプロレタリア文化大革命(文革)が発動された。劉少奇国家主席ほかの党要人、学術権威者たちをブルジョア反動思想路線を歩むものとして徹底批判して、逮捕、拘禁し、過激な大衆闘争・階級闘争が中国全土で展開された。その後68年には文革の尖兵、紅衛兵や都市の知識青年など2,000万人の若者が動員され、大規模な農村への下放が強行された。しかし毛沢東の威信を背景にのしあがった、いわゆる四人組が76年9月の毛沢東の死後逮捕されるにおよび、66年から10年間、7億の人々を混乱におとしいれた文革は終焉を告げた。やがて中国は鄧小平の主導によって経済の現代化を第一とする時代へと大転換を遂げた。
作者は92年から上海や浙江省の江南一帯の明、清時代の面影を残す古鎮を訪ねて、変貌を遂げる街のたたずまいや人々の暮らしの撮影を続けている。その中で、民家のしっくいや煉瓦の壁、工場の建物などに赤ペンキで肉太に書かれた政治スローガンや毛沢東語録の一節が残っているのに気付いた。文革発動以来40数年、雨に打たれ、風にさらされ、文字は赤い汚れとしか見えないものも多いが、「毛沢東思想万歳」とはっきり読めるものもある。毛沢東の肖像の壁画が残されている農家もあった。
今、文革は完全否定され、当時の革命思想も過去の歴史のなかに埋没したかのようにみえる。しかし、全土で激しく展開された政治運動は残影として刻まれ、混乱と苦悩の日々のあったことを静かに物語っている。
今回の展示では、文革の残影をとらえた作品に、古鎮での日常の暮らしの場面を撮った作品を加えて構成した。カラー約58点。
作者のプロフィール
英 伸三(ハナブサ シンゾウ)
1936年千葉県千葉市生まれ。東京綜合写真専門学校卒。日本写真家協会会員。現代写真研究所所長。農村問題などを通じて日本社会の姿を追い続ける。92年から中国の上海と江南一帯の明、清時代の面影を残す運河沿いの鎮を訪ね、「改革・開放」の近代化政策によって姿を変えていく街のたたずまいと人々の暮らしぶりを記録している。
写真集に、71年『農村からの証言』(朝日新聞社)、78年『1700人の交響詩』(高文研)、79年『子どもたちの四季』(三省堂)、 83年『偏(や)東風(ませ)に吹かれた村』(家の光協会)、84年『新富嶽百景』(岩波書店)、89年『英伸三が撮ったふるさときゃらばん』(晩聲社)、89年『日本の農村に何が起こったか』(大月書店)、90年『一所懸命の時代』(大月書店)、95年『町工場・鋼彩百景』(日本能率協会マネジメントセンター)、 2001年『上海(しゃんはい)放生(ほうじょう)橋(ばし)故事(ものがたり)』(アートダイジェスト)、06年『上海(シャンハイの)天空下(そらのした)』(日本カメラ社)、07年『里と農の記憶』(農林統計協会)、12年『桜狩り 昭和篇』(日本写真企画)などがある。
受賞歴に、65年個展『盲人―その閉ざされた社会』と「アサヒカメラ」の《農村電子工業》で日本写真批評家協会新人賞、71年写真集『農村からの証言』で日本ジャーナリスト会議奨励賞、82年写真展『桑原史成 英 伸三ドキュメント二人展』で第7回伊奈信男賞、83年写真絵本『みず』でボローニャ国際図書展グラフィック賞などがある。
下平 竜矢写真展
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星霜連関
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12/3 (木)
~12/9 (水)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休
写真展内容
10年ほど前、作者が青森県八戸市に住んでいたある日、古い神社で獅子舞を見た瞬間、揺らぎのようなものを感じた。その名付けることのできない未知なる感覚は、五感によって感じるのとは違うものを残して遠ざかっていった。
それ以来、作者はその未知なる感覚の正体とは何かを探している。人類の最初に生まれた人々は風景や土地、石や木や水などさまざまなものの表層に現れる可視と不可視の境に何を見て、何を感じていたのだろうか。その感覚は、訳も分からずに感じた未知なる感覚とは何か違う種類のものだったのだろうか。
その後、作者は関東に戻り、さらにその数年後、三重県伊勢市に移り住み撮影を続けてきた。移動する中でさまざまな土地や風景に立つことで喚起される直観は、天と地を繋ぐコスモロジーが作者の肉体を媒介にして合一していると思うには十分なものだった。土地の持つ地場や地霊とも呼ばれる、肉眼では見ることのできないものから与えられる一種啓示のようなものは、自然への共感とともに畏れと信仰のようなものを感じさせた。
その感覚は作者が獅子舞を見た時に感じた未知なる感覚とも近いところで重なり、そこで生じた揺れがシャッターを押させる契機となっているように思えて仕方なかった。
作者はその未知なる感覚を、印画の上に現すことができたら、これ以上の喜びはないと思っている。モノクロ約40点。
作者のプロフィール
下平 竜矢(シモヒラ タツヤ)
1980年神奈川県生まれ。2003年東京ビジュアルアーツ卒業。03年~04年Gallery Niépceの運営に参加。08年から11年にTOTEM POLE PHOTO GALLERYの設立メンバーになる。
主な写真展(個展)に、03年「アリアドネ」、04年「孤独な鳥の太陽」(以上Gallery Niépce)、05年「幻を見た」(Luny Frog) 、08年「星霜連関」(コニカミノルタプラザ) 、09年「全景/ATLAS」(大蔵寺)、同年「遠景 あるいは、目に見えるものとして」、11年「スナップ08-11」(以上TOTEM POLE PHOTO GALLERY)、15年「星霜連関」(ZEN FOTO GALLERY)がある。
主なグループ展に、10年「祭り」(ZEN FOTO GALLERY)、12年「錐十字」(雅景錐)、13年「Landscape of Particle」(新潟絵屋)、同年「影像2013」(世田谷美術館 区民ギャラリー)がある。
写真集に『Family』『祭り』『ELEMENT』『風土 vol.1』『星霜連関』、連載に11年7月から12年6月「週刊読書人」(「彩祭流転(シリーズ「星霜連関」より)」がある。
菊池 東太写真展
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日系アメリカ人強制収容所
WAR RELOCATION CENTER
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12/10 (木)
~12/16 (水)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休
写真展内容
本展では、第二次世界大戦開戦時に設けられた日系アメリカ人強制収容所を訪ねて撮影した作品を展示する。
当時、アメリカに居住していた日系アメリカ人は127,000人。その95%、120,313人が大統領令によって強制収容された。収容された日系人の70%がアメリカの市民権を持つ米国民だった。かれらは移住の命令を受けると、ほぼ1週間以内に手に持てるだけの荷物(トランク2個)を持って指定された集合センターに集結させられ、列車で収容所に送られていった。
収容先はカリフォルニア(2カ所)、アリゾナ(2カ所)、アーカンソー(2カ所)、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタの10カ所におよんだ。
夏には摂氏50度を超える灼熱の地だったり、逆に冬にはマイナス30度を超える酷寒の地だったり、ガラガラヘビが棲む砂漠や、湿度90%の湿地とさまざまな環境である。収容者の大半はロサンゼルスなど街中の住民が多く、このような過酷な環境には不慣れな人が多かった。しかし過疎地とはいえ、たいがい移住先の近くには町があり、ともすれば収容者のほうが現地のアメリカ人よりも身なりがよかったり、町には電気のない生活を送っている人がいるのに、収容所には電気がきていたこともあったりして、周辺に住む者と収容されている者との間にはさまざまなトラブルがあった。しかも各収容所の人口は1万人前後と近隣の町より大規模だ。
終戦とともに収容所は閉鎖され、かれら日系アメリカ人たちは解放された。現在、跡地の大半は内務省国立公園局の管理下に置かれ、歴史保存地区として見学者を受け入れているのが現状だ。兵舎仕様のバラックのあった跡地は畑になっていたり、和風庭園の跡と思われる大きな庭石が残っていたり、終戦後買い取られたバラックが近隣の町で今も住居や物置として使用されていたり、さまざまな状況がある。
1988年8月10日、合衆国大統領ロナルド・レーガンは議会で元収容者たち日系人へ強制収容について謝罪し、1人につき2万ドルを支給することでこの問題に決着をつけた。
作者のプロフィール
菊池 東太(キクチ トウタ)
1943年大阪府生まれ。出版社勤務の後、フリーになる。日本写真芸術専門学校講師を務め2012年に退任。日本写真家協会会員。日本カメラ財団 菊池東太写真塾講師。
写真展(個展)に、81年「砂漠のひとびと」(ミノルタフォトスペース)、87年「二千日回峰行」(有楽町そごう)、94年「木造モルタル二階建て」、95年「アメリカンウエスト〜ミシシッピの西」、97年「ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年」(以上コニカプラザ)、04年「足尾」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、同年「DESERTSCAPE」、06年「WATERSCAPE」(以上コニカミノルタプラザ)、09年「白亜紀の海-海底にあったアメリカ-」(銀座ニコンサロン)、13年「DESERTSCAPE 2」(コニカミノルタプラザ)、13年「白亜紀の海 2」(新宿ニコンサロン)がある。
著作に『ヤタヘェ〜ナバホ・インディアン保留地から』(佼成出版社)、『ジェロニモ追跡』(草思社)、『大地とともに(共著)』(小峰書店)、『パウワウ アメリカ・インディアンの世界』(新潮社)、『「アメリカ」ワールド・カルチャーガイド⑮』(トラベルジャーナル)などがある。
鷲尾 倫夫写真展
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巡歴の道 オキナワ II
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12/17 (木)
~12/29 (火)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休
写真展内容
日本・沖縄の歴史に対し、無知ゆえに無関心でいた。其処から私の沖縄通いが始まった。沖縄の今、人々の日常生活に一歩踏み込み、一齣、一齣を拾い集め、悲しい時代、昭和の歴史全体が見渡せる写真を切り撮りたいと考えた。想像に応える写真、写真としての存在感があり、人々の心に落としたいと、視点をここに置き挑み続けている。
何回も足を運んでいる洞窟に意を決し、深夜に出向いた。入口まで来ると真暗闇だった。摺り足で階段を降りた。目の前の小川の水流音が不気味に響き、尖った神経が、激しい動悸に変わった。空気は湿っぽく重い、風がない、樹々の葉に覆われ空は隠れていた。目を凝らしあたりを見回すが何も見えない。身体は小刻みに揺れだし立っていられない。尻を地面に落としても呼吸の乱れからくるのか、体は治まらない。少しでも動くと足下で骨の折れるような音が全身を縮みあげる。逃げだしたかったが方向感覚を失っていた。恐怖感が心身に駆け巡り、体を丸め頭を両手で抱え、おでこを膝に置きじっとしているしかなかった。思考能力は働かなかった。瞼にうっすらと明るいものを感じ、目を開くと階段の上に薄い光が斜めに射していた。五時間余り洞窟を目の前にしていたはずなのに背を向けていた。多くの命を奪った聖地に我が身を寄せることで何か見えて来るのでは。しかし何も持ち帰ることは出来なかった。のちのち洞窟での体感は私を変えた。私に、私の在り方をみる貴重な時間だった。
今まで不躾に聞きにくい事を聞くのが、仕事と思いあがっていた。それ以来、高齢者たちの心に染み広がる傷口を切り開いて、塩をすり込む話を持ち出すことはなくなった。
内なる傷を明かさないのは、我が身を守るためではないのかと、私は想像できるようになった。(鷲尾倫夫)
作者のプロフィール
鷲尾 倫夫(ワシオ ミチオ)
1941年東京都生まれ。60年愛知県国立高浜海員学校修了。60年東洋海運 (現・新栄船舶)に入社し、72年同社退職。73年日本写真学園研究科卒業。81年から「FOCUS」(新潮社)編集部専属カメラマンとして20年間在籍。83年日本写真学園主任講師になる。
写真展(個展)に、72年「東アフリカ・マガディン村の人々」「そのままで、君たちは」(以上新宿ニコンサロン)、76年「日々一生」、77年「寿町えれじぃ」、80年「冠婚葬祭」(以上銀座ニコンサロン)、81年「顔・エトセトラ」、(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、84年「ヨボセヨ」、86年「ヨボセヨⅡ」、89年「原色の町 ソウル84-88年」、91年「1977年-13年-1991年 エトセトラ」、94年「顔・エトセトラⅡ」、98年「韓国」(以上銀座ニコンサロン)、2003年「ソウル・シティ」(PLACE M)、04年「野球人」(ギャラリーコスモス)、07年「原色のソナタ」(PLACE M)、09年「写・写・流転」、10年「望郷・エトセトラ」(以上新宿ニコンサロン)、13年「巡歴の道 オキナワ」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、14年「THE SNAP SHOT」(JCIIフォトサロン)がある。
写真集に、90年『原色の町』(IPC)、00年『写真』、07年『THE SNAP SHOT』(以上ワイズ出版)、08年『原色のソナタ 1992~95 SEOUL』(PLACE M)がある。
受賞歴に91年伊奈信男賞特別賞、96年編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞がある。