写真展内容
本展では、第二次世界大戦開戦時に設けられた日系アメリカ人強制収容所を訪ねて撮影した作品を展示する。
当時、アメリカに居住していた日系アメリカ人は12万7,000人。その95%、12万0,313人が大統領令によって強制収容された。収容された日系人の70%がアメリカの市民権を持つ米国民だった。かれらは移住の命令を受けると、ほぼ1週間以内に手に持てるだけの荷物(トランク2個)を持って指定された集合センターに集結させられ、列車で収容所に送られていった。収容先はカリフォルニア(2カ所)、アリゾナ(2カ所)、アーカンソー(2カ所)、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタの10カ所におよんだ。
夏には摂氏50度を超える灼熱の地だったり、逆に冬にはマイナス30度を超える酷寒の地だったり、ガラガラヘビが棲む砂漠や、湿度90%の湿地とさまざまな環境である。収容者の大半はロサンゼルスなど街中の住民が多く、このような過酷な環境には不慣れな人が多かった。しかし過疎地とはいえ、たいがい移住先の近くには町があり、ともすれば収容者のほうが現地のアメリカ人よりも身なりがよかったり、町には電気のない生活を送っている人がいるのに、収容所には電気がきていたこともあったりして、周辺に住む者と収容されている者との間にはさまざまなトラブルがあった。しかも各収容所の人口は1万人前後と近隣の町より大規模だ。
終戦とともに収容所は閉鎖され、かれら日系アメリカ人たちは解放された。現在、跡地の大半は内務省国立公園局の管理下に置かれ、歴史保存地区として見学者を受け入れているのが現状だ。兵舎仕様のバラックのあった跡地は畑になっていたり、和風庭園の跡と思われる大きな庭石が残っていたり、終戦後買い取られたバラックが近隣の町で今も住居や物置として使用されていたり、さまざまな状況がある。
1988年8月10日、合衆国大統領ロナルド・レーガンは議会で元収容者たち日系人へ強制収容について謝罪し、1人につき2万ドルを支給することでこの問題に決着をつけた。
作者のプロフィール
菊池 東太(キクチ トウタ)
1943年大阪府生まれ。出版社勤務の後、フリーになる。日本写真芸術専門学校講師を務め2012年に退任。日本写真家協会会員。日本カメラ財団 菊池東太写真塾講師。
写真展(個展)に、81年「砂漠のひとびと」(ミノルタフォトスペース)、87年「二千日回峰行」(有楽町そごう)、94年「木造モルタル二階建て」、95年「アメリカンウエスト〜ミシシッピの西」、97年「ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年」(以上コニカプラザ)、04年「足尾」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、同年「DESERTSCAPE」、06年「WATERSCAPE」(以上コニカミノルタプラザ)、09年「白亜紀の海-海底にあったアメリカ-」(銀座ニコンサロン)、13年「DESERTSCAPE 2」(コニカミノルタプラザ)、13年「白亜紀の海 2」(新宿ニコンサロン)がある。
著作に『ヤタヘェ〜ナバホ・インディアン保留地から』(佼成出版社)、『ジェロニモ追跡』(草思社)、『大地とともに(共著)』(小峰書店)、『パウワウ アメリカ・インディアンの世界』(新潮社)、『「アメリカ」ワールド・カルチャーガイド⑮』(トラベルジャーナル)などがある。