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大沼 英樹展
[沖縄語(ウチナーグチ)II 美ら島 地獄の記憶]
9/17 (水)~9/30 (火)
10:00~19:00(最終日は16:00まで)
会期中無休 |
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<写真展内容>
1945(昭和20)年4月1日、米軍は約54万8000人の兵員と1500隻もの戦闘艦で、沖縄本島の中部西海岸に上陸した。その沖縄攻略作戦は「アイスバーグ」作戦と呼ばれた。
国内で唯一、本土決戦の場としてその土地を血で染めることとなった沖縄。作者は米軍、日本軍のどちらにも翻弄された忌まわしい戦争の傷跡を辿った。容赦ない艦砲射撃は「鉄の暴風」と呼ばれ、山を消し、地形をも変え、蒼い海と紅いハイビスカスが咲き誇る楽園は地獄と化した。
当時、沖縄の住民に軍部より下された命令が、「爾今軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」という標準語以外の沖縄の方言を話すだけで敵のスパイとされた。
米軍が上陸し、逃げ場を失った住民は、「命どぅ宝(命こそ宝)」と分かっていながら集団死に追い込まれた。ガマ(自然壕)の中で布団に火をつけ、または家族でまるくなり手榴弾のピンを抜いた。北側のヤンバル地方に逃げた住民を待ち受けていたのは飢餓とマラリアであった。証言者の一人は、生き別れた母親と再会したときに、「私のこと嫌いだから殺そうとしたの」と叫んで泣いた。戦争は家族の絆さえも奪ってしまう。沖縄南部の摩文仁の丘にある「平和の礎」。ここには沖縄戦の犠牲になった戦没者の個人名が刻まれている。その数23万人以上。
地獄の戦場を逃げ回った住民にとって、戦跡だけが戦争ではない。月夜に照らされる海岸や風に揺れる木々のざわめき。体に残る爆弾の破片は記憶から消えることはない。「私が死ぬまでは戦争は終わりません」……ひめゆり部隊として戦場を経験した女性の言葉が作者の脳裏に焼き付いている。
作者は戦争を体験していない親から生まれたが、この戦争で子どもや女性、老人、多くの罪もない人々が犠牲になったことを知った。これからは作者の世代が次の世代へ、「戦争ほど悲惨なものはない」と語り継いでいかなければならない。
本展は、2005年に開催した「沖縄語(ウチナーグチ)」の第二弾で、戦争体験者の証言をもとに作者が戦跡を訪ねて取材した作品を展示する。カラー30点・モノクロ15点。 |
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<作者のプロフィール>
大沼 英樹(オオヌマ ヒデキ)
1969年山形県天童市生まれ。88年山形県村山農業高等学校(林業科)卒業。90年創表現専門学校est(スタイリスト科)卒業。91年写真家宍戸清孝氏に師事。98年独立。2005年宮城県芸術選奨新人賞受賞。(社)日本写真家協会会員。
写真展に、93年サングラスをはずして「仕事着のハーレーフリークス」、94年あっぷっぷ「にらめっこの仲間たち」(以上仙台141ビル)、95年「New York ピンナップ」、96年「セピア色の旅New York・Paris」(以上CAFÉ COLORS)、98年「農華図感」(CAFÉアルドー)、「幻想復活」、「フィリピン・パダット村の詩」(以上週間アートギャラリー)、99年同(ギャラリーエチゴ)、2001年「ほごいらの詩」(仙台ニコンギャラリー)、02年「SAKURA~何でもない幸せ行方~」(銀座ニコンサロン)、03年同(仙台ニコンギャラリー)、04年「SAKURA~幸せの樹の下で・東北編」(銀座・福岡・仙台キヤノンサロン)、05年「沖縄語(ウチナーグチ)」(銀座ニコンサロン)、「この空をみて人はなぜ争うのだろう」(銀座コダックサロン)、06年同(むかでや画廊)、07年「SAKURA~幸せの樹の下で・九州編」(四谷ポートレートギャラリー、朝日新聞本社コンコース)、「紅の島沖縄」、08年「SAKURA~幸せの樹の下で・九州 沖縄編」(富士フイルムフォトサロン仙台)などがある。 |
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