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東京写真月間2008巡回展 宮本 常一展 [宮本常一が歩いた日本… 昭和37年~39年]
8/14 (木)~8/27 (水)
11:00~19:00(最終日は15:00まで)
8/16 (土)、8/17 (日) 休館 |
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<写真展内容>
作家司馬遼太郎をして「この人ほど日本の国土を知り尽くしている人はいない」と言わしめた民俗学者宮本常一…。
宮本の生涯は文字通り民俗調査のための旅に明け暮れる毎日で、その足跡は日本全国に及んでいる。宮本は調査地で、またその途上の列車やバスの中から、気にかかる物があれば、すかさず写真に収めた。宮本が全国を歩いて撮った写真はコマ数にして約9万枚余り、それは現在、山口県周防大島にある「周防大島文化交流センター」が一括して保存している。
宮本の写真の特徴は、民衆のごくありふれた日常生活を撮影していることにある。水田の畦に立つ1本の樹木や稲架、田畑の石垣、井戸や釣瓶、草葺の家、駅のホームに置かれた荷物、浜辺に座る木造の漁船、川の中に置かれた飛び石、木橋を行く路線バス、板壁に張られたポスター、浜辺の小屋と周囲に干してある海藻、粗末な装いだが素朴な表情を見せる地方の子供など…、それらはプロの写真家も、アマチュア写真家も、また一般の人なら尚更のこと写真に撮ろうと考えもしない対象ばかりである。プロの写真家にとって、写真は表現の手段であり、創造性や芸術性など「作品性の高い写真」が追求される。だが、宮本にとって「写真」は旅先で見た風景や光景を記憶し、記録するための手段だった。だから宮本の写真には、構図やシャッターチャンスを気に留めた様子は微塵も見られない。しかし不思議なことに、その宮本の遺した写真を眺めていると、その土地の人々の暮らしの様子だけでなく、その土地を吹き抜けていく春風や冬の冷気、移ろい流れていく時代さえもが漂い出てくるように感じられる。
今回の写真展では、こうした宮本の遺した写真群の中から昭和37年から39年にいたる日本の地方の写真を選んで構成した。昭和39年には東京オリンピックが開催され、東京、大阪間に新幹線が開通し、日本中が豊かな未来を予感し始めた時代である。好景気に東京や大阪の都会が沸き立っていた時代、宮本は日本の地方を歩き、飾り気ない地方の姿を写真に撮り今日に伝えてくれた。
写真の秘めた可能性の一つを示した宮本常一の一群の写真を楽しんでいただきたい。
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元周防大島文化交流センター参与 無限責任中間法人 あるくみるきく研究所 代表 森本 孝 |
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<作者のプロフィール>
宮本 常一(ミヤモト ツネイチ)
1907年山口県周防大島に生まれる。29年大阪府天王寺師範学校専攻科卒。小学校教師となる。30年柳田國男の『旅と伝説』に故郷の昔話を投稿し、柳田から返書が届く。35年大阪民俗談話会の会合で生涯の師となる渋沢敬三に会う。36年最初の著書『周防大島を中心としたる海の民俗誌』を刊行。39年小学校教師を辞して上京、渋沢の主宰するアチック・ミューゼアムに入所。45年大阪堺空襲で家財・書籍・資料一切を焼失。49年日本常民文化研究所(旧アチック)に復帰。54年全国離島振興協議会事務局長就任。58年作家木下順二らと雑誌『民話』刊行。63年日本塩業研究会会長就任。生涯の師渋沢敬三逝去。65年武蔵野美術大学専任教授就任。民俗学、生活史等を講義。66年日本観光文化研究所設立。地域文化の発見、研究を推進。70年田耕を中心とする「鬼太鼓座」設立に協力。74年日本民具学会の設立を提唱。77年村崎義正を中心とする「周防猿まわしの会」設立に協力。81年1月30日永眠。
おもな受賞:61年『日本の離島』によりエッセイストクラブ賞、瀬戸内海の産業文化開発に功ありとして中国文化賞(中国新聞社)、77年『宮本常一著作集』25巻により今和次郎賞(日本生活学会)、81年勲三等瑞宝章
おもな著作:1968年~『宮本常一著作集』未來社(既刊51巻(別巻2巻含む)、現在も継続中)、84年『忘れられた日本人』『家郷の訓』以上岩波文庫、その他多数。 |
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