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第29回伊奈信男賞受賞作品展
宍戸 清孝写真展
[21世紀への帰還 IV]
1/13(木)~1/25(火)
10:00~18:00
1/19(水)休館 |
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<写真展内容>
本展は、次代へ伝えるべき普遍性を求めたシリーズの第4弾である。
1945年8月15日の終戦から、2005年の同日までで満60年を数える。
戦後15年を過ぎた頃(1960年)、作者は遊ぶことに夢中な少年だった。しかし桜が咲き香る季節だけは、作者の中でおもむきがちょっと違った。近くの神社の春祭り、境内には傷痍軍人の方々の痛々しい姿を目の当たりにしなければならないからだった。盲目の人、腕や足を失った人、頭蓋骨が欠けてしまった人等。祭りの賑わいとはかけ離れたその空気から早く逃れたい一心で、作者は両の目をきつく閉じて母の手のひらを握りしめ、早足で通り過ぎるのがやっとであった。後ろから追いかけてくるかのような、悲しげなアコーディオンの響きは、はらはらと散り始めた桜の花びらの香りとともに、少年の作者の五体に染み入っていった。
中学一年の夏休み。作者は伯父(日展入賞画家)が三沢基地で画商をしていた関係で、基地の中を案内して貰った。広大な敷地内の施設はアメリカそのものであり、あちこちにはためくアメリカンフラッグに目をみはり、大きなソフトクリームに舌鼓を打ちながらも、あの傷痍軍人の印象と基地の米兵の快活さとを無意識に比べて、やるせない気持になっている自分がいた。当時、ベトナム戦争の真っ只中であり、戦闘機が飛び立つ轟音がいつも響いている。戦争とはいったい何なのか。ここからベトナム取材に赴いていった沢田教一氏は、奇しくも伯父の友人でも会った。
1980年。作者は滞在中のハワイで日系二世の一人の老人と出会った。彼の名はトーマス・オオミネ。彼は日系二世部隊442の旧隊員で、第二次大戦において過酷なヨーロッパ戦線等で、「Go For Broke」(当たって砕けろ)の合い言葉のもと、米兵として勇敢に戦い抜き、連合軍の中でも高い名誉と尊敬を勝ち得るに至った経緯をもっていた。
1941年12月7日に起こった日本軍によるパールハーバー奇襲攻撃以来、米国本土在住の日系人の90パーセントにも及ぶ人々が、不当にも裁判や審議をされないまま、鉄条網が張り巡らされた収容所に送られた。しかしそれでありながらも、自分たちを拒絶したアメリカ国の兵士として、一世の両親らの名誉回復のために、その囲いの中から自ら志願した男たち。その数奇な運命を背負った彼らの軌跡をドキュメンタリーとして永遠に歴史に残す仕事こそ、自分に課せられた使命ではないか。直感でそう思った。
あるとき、同じ日系二世兵でも戦闘兵ではなく、情報部という分野で活躍した人が数多くいることを知った。彼らは日米双方の言葉に通じ、アメリカ軍の各部隊に広く配属されていたが、多くは南太平洋と東南アジア、中国に派遣され、捕虜の尋問などの任務で日本兵と対峙しなければならないという運命が待ちうけていた。MIS(ミリタリー・インテリジェンス・サービス)という、日系二世で編成された隊員は約6000人。彼らの多くは、暗号解読等の任務の特殊性や守秘義務に忠実で、戦後も固く口を閉ざしていた。
戦後、半世紀以上が過ぎ、高齢となった彼らのもとへ足繁く通い、幾度も語らいを重ねていくうちに、いつしか作者を暖かく迎え入れてくれるようになった。彼らは、生還できた者の使命として、自身の体験を後世に伝えるべきではないかと考え始めたように思えた。
再会の瞬間に、肩を抱きながら自宅に案内してくれる彼らの真心に触れるたびに作者は、二世兵生還者の最後の一人まで取材を続けていこうと心に決めたのである。
二世たちが勝ち取った、差別と偏見に満ちあふれていたプロパガンダからの解放。人権を踏みにじるデマ等に屈せず、次世代へと平和の松明を受け継がなくてはならない。 |
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<授賞理由>
第29回伊奈信男賞は宍戸清孝氏の「21世紀への帰還 IV」に決まった。宍戸氏は第二次世界大戦中、米兵として従軍した日系二世部隊を二十年余りにわたって取材してきた。受賞作はニコンサロンでの同じテーマによる写真展の4回目に当たる。
太平洋戦争が勃発して間もなくアメリカは、在米日系人を大統領令によって強制収容し、そのうちの若い男子に兵役志願を呼びかけ、ヨーロッパとアジア太平洋戦線に従軍させた。
受賞作は、二世部隊のうち太平洋戦争で軍事情報活動に当たり、日本の敗戦後はGHQ(米軍総司令部)の通訳を果した元米兵をハワイに訪ね、ポートレートと短文の証言で構成している。
長い歳月をかけ丹念に取材を重ね、写真と言葉を拮抗させた作品からは、父母の国と自国の間で揺れる日系二世の心の襞(ひだ)と戦争の無情が、情感豊かに伝わってくる。その所以は日本が戦後、記憶の外にしてきた“負の昭和”を執拗かつ真摯に追い求めてきた集積に裏づけられている。
受賞作「21世紀への帰還 IV」は、写真が進行する時間を語るにとどまらず、過去の時間をも呼び戻し、歴史の語り部の役を果たせることを示した。 |
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1980年渡米。2年6ヵ月滞在。ニューヨークにてドキュメンタリーフォトの歴史的価値に感銘。86年宍戸清孝写真事務所として独立(ルポルタージュフォト)。92年カンボジア・アンタック国連代表の明石康氏と国連の活動を取材。同年、ニューヨーク世界写真文化センター理事長のコーネル・キャパ氏より指導を受ける。96年、作品「20世紀中国の知性12人の博士の肖像」が北京精華大学永久収蔵作品となる。98年、巡回展「ピュリッツアー賞写真展」(宮城県美術館)において記念講演。2003年、日本リアリズム写真展において特選を受賞。同年、全米日系人博物館にコレクションされる。日本写真家協会会員。
写真展に、93年「カンボジア鉄鎖を越えて」(銀座ニコンサロン)、「世界報道写真展」(オランダ・ハーグ)に出品。94年「カンボジアレポート」(ニューヨーク・ブロードウェイギャラリー)発表。「世界報道写真展」(オランダ・ハーグ)に出品。95年「戦後50年記念・21世紀への帰還」(銀座ニコンサロン)、96年「光画・せんだい 地方都市からのメッセージ」(銀座ニコンサロン)、97年「東北写真探検・三沢」(キヤノンサロン銀座・大阪・福岡・仙台)、98年「続・21世紀への帰還」(銀座ニコンサロン)、2000年「日本の写真家1000人展」(東京恵比寿文化村)、01年「21世紀への帰還 III」(銀座ニコンサロン)、「漁民・畠山重篤が山に木を植えるということ」(キヤノン銀座・札幌・仙台)、03年「日本リアリズム写真展・視点特選」などがある。
著作に、98年「論座」(9月号・朝日新聞社刊)に「21世紀への帰還」を、99年同じく「論座」(12月号)に「続21世紀への帰還」を、また02年「潮」(1月号・潮出版社刊)に「真珠湾攻撃60周年、日系二世の証言」を掲載。 |
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