どうしてこんな写真を撮ったのか、自分でもわからないことがほとんどだ。
子供の頃にあった×××は、大人になった自分から、もうすでに遠くにあるイメージになってしまった。
あの頃とても怖かった×××に、もう一度出会えるかもしれない、というある種のこわいもの見たさからシャッターをきる。目の前に近づいてきては、すぐに過ぎ去ってゆく現実。目をつぶっても現実は消えることはない。それらは写真におさめることで、作者からも、日常からもほんの少しだけ離れて、子供の頃の×××を思い出させる。
すべてが消えてなくなる前に、シャッターをきり、イメージせよ。
作者は自分に言い聞かせる。
※「×××」は、作者が子供の頃にきっと見えていた、言葉に表せない何かである。
吉原氏の「よびみず」は、日常にあって己の無意識の底に封じられた感情や記憶を「写真を写し撮る」という行為で活性化させ、浮上させようとする試みである。
内なる深層に向かうために、外へと向かう身体的写真行為が「よびみず」となって、内なる基層の意識構造をも引き出せないかというあがきにも似た行為。現れたものは、期待を裏切るものになったのではなかろうか。写真に現れるものは、あくまでも具体で断片、構造として現れることはないからである。
作者はそれに絶望することなく、それらの断片を繋ぎ、写真展という空間の中に解き放す。断片としての一枚のイメージを大サイズ(タテ200cm×ヨコ150cm)、ピンナップ形式という展示構成することで、イメージを相互に浸透させ構造化することに成功した。結果として、目的とした過去のイメージや記憶を具体として何かを見いだしたのだろうか。逆説的だが、見出せないことを見出したということかもしれない。
写真に繰り返し使われている暗いディテールの平面は、深層に向かおうとする意図を阻止されたという証か? それとは対照的に、空に広げるパラボナアンテナ、闇に赤く輝く電波塔等は、遠くの他者から未知なる信号を受納したいという意識を表徴としているように見える。阻止と願望の葛藤を空間をかりることでイメージとして結んでいるのがよい。
かつて作者には「カプセルアパート」(07年ニコンサロンJuna21)という社会学視点に立った作品がある。「よびみず」は、そこから大きく逆に揺れた作品。その振幅には、豊かな才能を確認することが出来る。
1980年兵庫県生まれ。
写真展に、03年「カプセル アパート」(PLACE M/東京)、07年同(新宿ニコンサロン・大阪ニコンサロン)、08~09年7回連続展「吉原十景」(PLACE M/東京)、10年「晴天乱気流」(TAP/東京)、「カプセル アパート」写真集出版記念展(TAP・PLACE M/東京)、11年「#1」(TAP/東京)などがあり、写真集に「カプセル アパート」(2010年・TAP刊)などがある。