作者は、牛小屋と豚小屋に挟まれた家で、鳴き声やいびきを聞き、飼料や糞尿のにおいを感じながら生きてきた。作者の両親は毎日この牛小屋と豚小屋で働き、牛に蹴られてよく怪我をしていた。
小学生の頃、同級生たちが授業の一環として、作者の家に見学に来た。ひとりの子が「かわいそう」と言った。作者は少し傷ついた。自分も感じていたことだったからである。「じゃあ、あなたは牛乳飲まないの? お肉は食べないの?」と返すだけでは、作者の心の中の小さな痛みへの解答にはならない。
それから作者は、ずっと考えた。
しかし作者は、同時に両親が牛を可愛がっているところも見てきた。子牛が産まれるとうれしくて、ブラッシングしたり、ミルクをあげたりしたが、名前はつけなかった。ペットとは違うと解っていたからである。1ヶ月後には別れがくる。泣きもせず、ただ別れるだけ。彼らがこれからおいしい肉になるため、別の農場で育てられていく。ひどい生活を牛や豚にさせていることも、作者にはわかっていた。
作者はとても矛盾していると思う。自分たちの欲望のため、積み重ねられた膨大な時間、たくさんの血、汗、命、寂しさ。何もいわずに、ただひっそりと佇んでいるのを感じながら、矛盾した痛みは固まって、小石のように転がったり、つかえたりする。
モノクロ93点
コメントによると、作者は牛小屋と豚小屋に挟まれた家で育ち、日々牛や豚の鳴き声を聞きながら、飼料や糞尿の匂いの中で暮らしてきたという。社会にとって美味しい肉を提供するためになくてはならないものでありながら、「臭い」「かわいそう」「残酷だ」といった言葉で安易に語られることの多い畜産場は、現代社会や人間の矛盾が渦巻く場所のひとつでもある。その中で生きることに伴う痛みを抱えてきた作者が自らの生活の場に向けるまなざしは、激しく憤っているようにも見える。
しかしそこには、単なる憤りにとどまらない凝視の姿勢がある。ほとんど目が痛くなるほどの執拗な凝視から生み出された黒々としたプリントは、世界を都合よく擬人化しようとする者を嘲笑するかのような凄味をもつ。本作品のタイトル「豚が嗤う」とはまさにそのような意味においてであって、それは優しい「微笑み」などではない。時代の動向に振り回されることなく、自らの切実な生活の場から出発して圧倒的な展示空間を構成したその力量は、受賞に値する。
1979年埼玉県生まれ。2004年プレイスM(初心者コース)で中居裕恭氏に学ぶ。
写真展に、09年「豚が嗤う」(Juna21/新宿・大阪ニコンサロン)、10年中藤毅彦ワークショップ写真展(ギャラリー・ルデコ)などがある。