ある日突然いなくなり、数ヶ月間姿が見えなくなる。そのような「蒸発」を繰り返し続けることで、父は何もない人間になった。財産も、他人との関係性も、自分の考えも、何もない。
何もない人間になること。それはおそらく父自身が望んだことだ。何もない人間になれば、自分のことについても、自分のことを考えてくれる他人についても、考える必要がなくなるのだから。
ある作家が次のようなことを書いていた。
「もし他人のことをほんのわずかでも知ることができるとしたら、それはその他人が自分を知られることを拒まない限りにおいてだ。もし寒いときに、『寒い』と言うことも震えることもしない人間がいたとしたら、私たちはその人間を外から観察するしかない。ただし、その観察から何か意味が見出せるかどうかはまた別の問題だが」
父は寒いときに震えることはすると思う。だが、「なぜ震えているのか」と尋ねられても、父は「わからない」と答えるだろう。本当にわからないのか、それともただ考えたくないのか、それは他人からはわからない。おそらく、本人もわかっていない。(金川 晋吾)
カラー17点。
作者の父親は蒸発を繰り返し「財産も、他人との関係性も、自分の考えも、何もない」人間になったという。本作品はその父親を撮ったものだが、これが数多ある「親を撮った」写真と一線を画しているのは、そうした状況の特殊性によるわけでは必ずしもない。ぼんやりと宙を見つめる父親の姿、雑然とした室内、書き残されたメモ――断片的なイメージの連なりから浮かび上がるのは、確かな父親という像ではなく、いわばがらんどうの、人間の中にぽっかりと口を開けた空洞である。作者は、父親にカメラを向けることで意味を付与するのではなく、そこに執拗にまとわりつくイメージや意味をはぎとりつつ、静謐でリリカルな映像によってその空洞を指し示している。
それでもなお、世界は父親に名前を与え、意味を与え続けることだろう。作者の父親にとって、生きるとはそのような世界からの絶えざる逃避であるが、そうであればこそ、じつは本作品こそが「何もない人間であること」を望む父親が存在し得る類稀な場でもあるのかもしれない。そう思わせるのは、ひとえに本作品の完成度の高さゆえである。
1981年京都府生まれ。神戸大学卒業。第26回、28回写真「ひとつぼ」展入選。現在東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士後期課程在籍。