日本初の高速道路が栗東~尼崎間に開通したのは1963年。わずか45年前には高速道路なるものは日本に存在していなかった。
戦前、内務省が長崎~樺太間を結ぶ5490キロの高速道路建設を計画したこともあったが、戦争の進行により建設はされなかった。そして現在の状況は、1966年の国土開発幹線自動車道建設法で計画された平野部の人口密集地を結ぶ7600キロの路線建設を終え、1987年に国鉄民営化と同時に策定された第4次全国総合開発計画で当初計画に付け加えられた(高速自動車国道)3920キロ+(一般国道自動車専用道)2480キロの、山間の過疎地域を結ぶ肋骨線の建設に入っているところであり、全予定路線14000キロの内8920キロが開通している(2006年11月末)。
日本列島を面積から見ると平野は少なく圧倒的に山が多い。山間部の交通不便な場所に住んでいる人々は、山や川を越えて高速道路がやって来た時、自分達を取り囲む厭になるほどの自然を技術が制圧したことに感嘆し、発展をもたらしてくれることを期待しただろう。
そう、確かに野菜や魚などを大消費地に出荷できるようになり、高速道路は生活水準を向上させてくれた。また、高速道路を使うことで誰もが気軽に都市に出かけられるようにもなった。しかし、よりよい暮らしを求める人々が続々と都市へと移っていくことにもなった。そして都市に人を奪われた地方は一層寂びれゆき、車の通行の多い道沿いにコンビニ、サラ金、パチンコ屋、等々の各種郊外型店舗ばかりが立ち並ぶ、何処に行っても同じような街が「くに」中に広がるようになった。
誰もがもっと豊かに、もっと便利になりたいと願っている。その衝動を無制限に追求してきた結果として今の「くに」がある。だが、「くに」中の誰もが、東京にいるかのように暮らしていく事は不可能だ。それでも今までと同じように「くに」中に物を溢れさせ、時間も人間も、無駄なく徹底的に使い切ることをただ一心に追求していく社会を続けていくのか? それとも違う方向にむかって舵を切るのか?
高速道路は出発地から目的地までを最短・最速で結ぶ便利なモノで、使う人はその間に横たわる土地を距離という数字に置き代えることで、高速道路の外側に広がる広大な土地を無視することができるようになった。では、この無視されてきた場所には何が在るのだろう? ここに在るのは、都市と地方、北と南、海と山、日本海と太平洋、等々の色々な条件によって大きく異なった様相を見せてくれる多様な「くに」の姿である。そして、その見過ごされてきた何気ない平凡な「くに」を注意深く眺めていくと、多様な環境に適応する中で人々が編み出してきた非凡な暮らしを読み取ることができる。また、この「くに」が本来的に均一な社会だという考え方に対しても、疑問を抱かざるを得ないように思えてくる。
自分が立っている「くに」とはどういう場所であり、あったのか? 今の上に築いていくこれからの時代をどうするのか? 作者は本展がそういったことなどを思う契機になってくれることを願っている。
現在、高速道路は、日本全国に網の目のように張り巡らされようとしている。その高速道路が国土を割るように延びる風景(北は北海道、南は鹿児島まで)を、モノクロームの精緻な描写で淡々と捉えている。それらの高速道路が、新しい「くに」のカタチをつくりあげ、利便な生活を約束するかのような風景として立ち現れてきている。一方、伸びやかにスロープする高速道路のラインは美しく優雅であり、人間の英知の見事さを表出するよう真摯に対峙している表現からは、高速道路のある風景をあくまでも美しさの対象としているかのように見える。しかし、そのような美しい風景を凝視していくと、道路が造られる前の美しい自然のかたちや人間の生活の営みまでが読み取れてくるよう仕組まれていることが判る。失われるモノの替わりに、我々が手にしようとしているモノは、一体なんなのだろうか? 作者は、風景に潜在するもう一つの喪失した風景を写し込むことに成功している。優しい風景の装いをとりながら、実は、最も今日的な課題「人と自然」をアクチュアルに表現している作品である。
1975年 兵庫県神戸市生まれ
1997年 中央大学文学部史学科国史学専攻卒業
2002年 日本写真芸術専門学校2部報道芸術科卒業
個展
2007年 「くに」のかたち HIGHWAY LANDSCAPES OF JAPAN
(Nikon Salon Juna21/新宿ニコンサロン・大阪ニコンサロン)
作品掲載
世界(岩波書店)2003年10月号
作品収蔵
清里フォトアートミュージアム