山羊は沖縄の生き写しだ。気性はきまじめでおとなしく優しいのだが、最後にはその絶妙な味ゆえに殺され食べられてしまう。タイトルの「山羊の肺」は、沖縄の歴史と文化の象徴のようだ。
本展は、黙々と働いている名もなき人々、人生をマンガタミー(*)して底辺で生きる『職業婦人』、『渚の人々』、『沖縄戦で死んでいった人達のための「俑」』など1968~2005年の作品で構成されている。
写真のタイトルが面白い。〈脳は宇宙をかけめぐる〉、〈空き缶を拾いそれを売って家を作った人〉、〈好きな男が女の所から出てくるのを朝までまっている女性〉、〈双子を生み一人は家庭にとられ、もう一人をとられまいとして逃げ廻っている女性〉。
戦後の混乱のさなか、自ら生きていくために、あるいは家族の生活のために「職業婦人」となった女性たち。彼女たちは、沖縄が復興を遂げていく過程で次第に社会の「恥部」と見なされるようになり、村や家族からも排除されていった。写真には、「復興」と「復帰」の蔭で打ち捨てられた女性たちの姿が刻まれている。同時代をともに生き、被写体となった人々が平敷のカメラに向ける眼差しは、静かに深く見るものを見返す。
*人の不幸をみんな自分で背負うこと
―平敷兼七写真集刊行委員会
今年一年、審査会では古い写真による応募が目についた。今でも情緒あふれる浅草界隈、と思いきや、実は昭和中期に撮られた写真だから、レトロに見えても当然なのであった。他にも60年代末の学生運動を扱ったものがあった。80年代末のバブル期土地経済を扱ったものがあった。事情は異なるが、すでにこの世を去っている方からの応募もあり、これには驚いた。
古い写真を見せるというこの傾向は、懐古的というよりもむしろ現代的と思えた。写真家たちが撮影者としての態度だけではなく、受容者としての態度も身につけ始めたということだからだ。このような二重の態度を持たない限り、すべての写真が宿命的に孕み、発酵させてゆく、あの「過去」や「記憶」といった哲学的難題を扱うことはできないに違いない。そう感じさせるところが現代的なのである。しかしながら、そのことを意識する写真家にはまず、容赦のないほど長い、人生の時間を過ごす覚悟が必要になってくるだろう。
平敷兼七氏の「山羊の肺」は、1968年から2005年までの、彼の長い仕事の総集編といった趣だった。そこに見える沖縄は、多くが「もう消えてしまった」という強い郷愁を与えてくるものであるが、同時に、平敷兼七氏というすぐれた撮影者の視線は、まるで一本の丈夫な糸のようにしてそれぞれの写真を縫い上げており、その先端にあるだろう針は、沖縄の現在に、そして私たちの心に、ぷすりと刺さるのだった。
40年もの時間を計画的に、この日のために捧げてきた訳ではないだろう。毎日を生きたから、写真を続けたから、結果的にこうなっている。だが「山羊の肺」は、決して「結果」には見えず、むしろ「いま」として体験される。これは特別なことだ。彼の写真実践の根底に、科学的な観察心や芸術的な世界把握の方法が豊かに存在していることの証である。他の応募作より際だっていたこの点が、今回の受賞の大きな理由となった。美味しい古酒はやはり、心を込めて造られた泡盛からしか生まれないのだと教えられた。
1948年沖縄今帰仁村(なきじんそん)上運天(かみうんてん)生まれ。69年東京写真大学工学部中退。『週刊ポスト』にて「祖国復帰を拒否する女達」を発表。72年東京綜合写真専門学校卒業。『カメラ毎日』3月号にて「故郷の沖縄」を発表。79年山城見信著『美尻毛原の神々』の写真を担当(宮城彦士氏とともに)。85年嘉納辰彦・石川真生らと同人写真誌『美風』創刊。98年東川町国際写真フェスティバル(北海道)へ講師として招待される。
写真展に、69年「オキナワ・南灯寮」(沖縄タイムスホール)、87年合同写真展「美風」(那覇市民ギャラリー)、92年「写真で考える沖縄の戦後史展」(パレットくもじ/那覇市ほか)へ出展。2002年「琉球烈像―写真で見るオキナワ」(那覇市民ギャラリー)へ出展。06年「金武から来た女性」(新宿アガジベベー/Gallery銀座芸術研究所)、07年「山羊の肺」(南風原文化センター/Galleryラファイエット)、「沖縄文化の軌跡1872-2007」(沖縄県立美術館)へ出展。
写真集に、91年『金城美智子・光と影の世界』、92年『沖縄を救った女性達』『沖縄の祭り―宮古の狩俣島民の夏のプーズ』『沖縄戦で死んでいった人達のための「俑」』(以上私家版)、96年『島武己』、07年『山羊の肺』がある。
2008年10月31より12月21まで東京国立近代美術館にて行われる沖縄・プリズム1872-2008に出展。