作品を構成する5つの祭事の形態は、格闘とも言える身体行為であり、私はその「格闘の祭事」の只中に身を投じ撮影してきた。最初は好奇心でそのような撮影方法に及んだが、私がみたであろう光景を克明に写す写真は、祭事という場の空気にもまれる参加者の視線になっていた。そのおかげで、いったい何が行われているのかすらわからない写真から、彼らのエネルギーはどこからきてどこに向かっているのか、「格闘の祭事」とはなんなのか、という問いが思いがけず私の眼前に立ち現れてきたのである。それが、このシリーズをつくる動機となった。
いつも訪れる祭事での会話の中で興味深い言葉があった。季節感(風向きや日差しなど)や街の喧騒などの情感で、そろそろ祭りが来るなと思うそうである。それはまるで祭事の方から向かってくる様な言い回しであった。
祭事は、先人たちの霊魂、神そして自然の様々な精霊たちとの対話の場である。「祭事」を「自然」もしくは「神」と置き換えて、「向かってくるもの」と考えると、「格闘の祭事」は「自然の猛威」とみる事も出来る。「自然の猛威」が差し迫った時、我々人間はその困難に立ち向かい必死に生きようとするだろう。何しろ自分の生死、実存の問題であるのだから。
もし「祭事」の方から向かってくるのであれば、彼らのエネルギーの矛先は祭事で使うボールでもなく、ましてや隣人でもない。それは「神あるいは自然」そのものへと向かっているのではないか。それは写真には写らないし見えないものだが、彼らの視線の彼方にはそれが見えていたと、撮れてしまった写真をみて思う。
このような困難や恐怖を乗り越えようとする倫理以前のような人間が、まさにそれを乗り越えた瞬間、人間は倫理や道徳を手に入れてきたのではなかったか。もしそうであるならば、「格闘の祭事」は”人間たらしめる生きるための闘い”である。その実践的経験の場が、「格闘の祭事」であり、先人達の知であり、神あるいは自然からの恵みなのではないだろうか。
(甲斐 啓二郎)
甲斐啓二郎は、2012年2月にイギリス・ダービーシャー州アッシュボーンで、フットボールの原型とされるShrovetide Footballの行事を取材した。この、川を挟んだ二つの地域の住人たちがひたすらボールを奪い合う行事の撮影をきっかけにして、世界各地でおこなわれている「格闘の祭事」に足を運ぶようになる。
秋田県美郷町の「竹うち」、長野県野沢温泉村の「火付け」、ジョージア・シュフティのLelo、ボリビア・マチャのTinkuといった行事に共通するのは、男たちが体をぶつけ合い、揉み合ううちに、「生きること」のみに純化した「倫理以前の人間の姿」に回帰していくことだ。甲斐は説明的な要素を切り捨て、格闘する人の群れ、彼らが発するエネルギーの場に直接カメラを向けることで、あたかも太古の時代に戻ったような始原的な人間の姿を捉えようとした。それは珍しい祭事のドキュメンタリーというだけではなく、スポーツやゲームがどのようにして形をとってきたかを人類学的な視点から考察する、とてもユニークな写真の仕事といえる。
2020年度は、新型コロナウイルス感染症の拡大によって、ニコンサロンでの展示も一時休止を余儀なくされた。甲斐の「骨の髄」も、大阪ニコンサロンでは7月9日〜7月15日、銀座ニコンサロンでは8月26日~9月8日に会期を変更して開催されたが、よく練り上げられた充実した内容の写真展になった。また、これまでの仕事をまとめた写真集『骨の髄』(新宿書房)が刊行され、日本各地の「裸祭」を撮影した新作「綺羅の晴れ着」も既に発表されている。1976年以来、回を重ねてきた、伊奈信男賞にふさわしい業績といえるだろう。甲斐の今後の活躍も大いに期待できそうだ。
(選評・飯沢 耕太郎)
1974年福岡県生まれ。2002年東京綜合写真専門学校を卒業。現在、同校非常勤講師。
スポーツという近代的概念が生まれる以前の世界各地で伝統的に行われている格闘的な祭事を、その只中に身を投じながら撮影し、人間の「生」についての本質的な問いに対して写真で肉薄する作品を発表している。
2016年Daegu Photo Biennale(韓国)、2018年Taipei Photo(台湾)、2019年Noorderlicht International Photography Festival(オランダ)などのグループ展に参加。個展
多数。写真集に『Shrove Tuesday』(Totem Pole Photo Gallery、2013年)『手負いの熊』(Totem Pole Photo Gallery、2016年)、『骨の髄』(新宿書房、2020年)がある。
2016年、写真展「手負いの熊」「骨の髄」で第28回写真の会賞を受賞。2020年、写真集『骨の髄』で第20回さがみはら写真賞を受賞。