小さな町の大きな影響
私は子供の頃から映像に興味を抱いていました。生まれ育ったネブラスカ州の西部には都会に当たり前にあるようなものが殆どありません。それで私は世の中のことを本や雑誌を通して学んだのです。2歳の頃からライフ誌やスポーツイラストレイテッド誌が身の回りにあったのを憶えています。どちらも豊富な写真の載った定期刊行物です。14歳のとき図書館でアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」というタイトルの本と出会い、彼の写真についての考えを学びました。その次に読んだのがW・ユージーン・スミスのもので、ユージーン・スミスは私の変わることのない目標となりました。そして、1971年にジェイムズ・ミッチェナーの書いた「ケント州:何が起きたのか、そしてその理由」という本に没頭したのです。これらの本は私を夢中にさせ、その後の私の写真家としての方向性を決めたのです。
私の物の見方の根本を築いたのは母です。母は教育者であり、芸術家でもありました。子供の頃は分かりませんでしたが、母は私も芸術家に育てようとしていたのです。いつも私に形、質感、色彩、感情について語り、どうすればそれらを使って視覚的コミュニケーションができるかを教えたのです。写真と直接関係した教育ではありませんが、私の物の見方は母の教えを通じて形作られたのです。7歳の頃、祖父母がネブラスカの小さな町に暮らしていました。その年のクリスマスに私は両親から小さなポケットサイズのカメラと12枚撮りのフィルム2本を貰いました。すると私は24コマを一気に使ってしまいました。何コマか残しておいて、もったいないから後で使おうなどということは考えませんでした。2コマ目に写したのは、44インチ積もった記録的な豪雪のクリスマス・イブの写真で、雪の多さと一変した町の様子に私は驚きました。2コマ目の写真には、男が雪に埋もれた自動車を掘り出そうとしているところが写っていて、私はまさにそのときにフォトジャーナリストとして出発したと言えるのではないかと考えています。子どもながらに、その出来事を記録し、残しておきたいと思ったのです。
撮影での心構え
プロになってからは、ハインツ・クルトマイヤーから最も影響を受けました。大掛かりなものであれ、簡単なものであれ、彼はどの撮影に対しても分け隔てなく、大きな情熱と忍耐力で打ち込むのでした。あるとき、一人の女性が彼女と友人を、その女性のコンパクトデジタルカメラで撮ってくれませんか、と声を掛けてきたことがありました。するとハインツはカメラを覗き応えました。「光が良くないので撮れませんね」女性は言いました。「構いませんわ。ただ、このボタンを押してくだされば良いのよ」するとハインツは、アシスタントに命じてトラックから様々な照明機材を下し、照明の準備を始めました。光の具合に満足すると、数枚写真を撮り、カメラを女性に返すと、何も言わずに立ち去ったのです。これが広告なら、2万5千ドル程度の請求をしてもおかしくないような撮影をしたのですが、ハインツにとってはお金は二の次で、良い写真を撮ることが大切だったのです。きちんと撮影しなければ気が済まなかったのです。私も常に彼を見習いたいと考えています。
フォトジャーナリズムのもつ力と責任
私は徹頭徹尾フォトジャーナリストとして活動しています。運動競技であれ、広告であれ、私はフォトジャーナリストとして撮影します。それが私がやってきたことであり、今でも一番にやりたいことなのです。運動競技を撮るときに自分の美的感覚やその競技に対しての自分の考えなどを写真に織り交ぜることもありますが、報道的な側面が抜け落ちることはありません。競技の結果を伝えることを忘れてはいけません。何が大切で、何故大切なのかは、必ず見せなければなりません。スーパープレイの瞬間を捉えた凄い写真は、勿論撮りたいと思いますが、写真がまとまったストーリーを構成するようにも配慮して撮影します。
写真の伝えるストーリーが予期せぬ大きな影響をもつことがあります。30年程前、私はカンザス州立大学で学びながら働いていたのですが、ある日近隣の小さな町を車で通り抜けようとしていたとき、皺だらけの顔をした男が道路脇にいるのが目に留まりました。その印象深い顔と、古いトラックの写真を撮らせてもらおうと、車を止め彼に声をかけました。自分は農夫だと彼は返事をしました。2人で話をしていると、小さな女の子が彼に駆け寄り、男は女の子を抱き上げました。女の子を腕のなかに抱えたまま、男は私と話を続けました。男と女の子の顔は対照的で、男の方は痩せた土地を地図に描いたような皹と皺だらけなのに対し、女の子はきれいですべすべした肌。女の子を私はてっきりその男の孫娘かと思っていたのですが、話をしていると彼の娘だと言うのです。彼の年齢はまだ49歳で、過ごして来た厳しい生活を思い、私は衝撃を受けました。撮影した一枚の写真は私が務めていた新聞の一面に掲載されました。
30年程、時間を進めます。2010年のある日、私のオフィスの電話が鳴りました。出てみると、相手は女性で私にこう言うのです。「少し変わった用件で電話をしているのですが、リロイ・ハッチという名前の男性をご存知でしょうか」私は応えました。「勿論覚えていますよ。30程前に写真を撮ったことがあります」女性はこう言うのです。「そう、その方です。現在は老人ホームに住んでいらして、私はその施設の職員です。リロイはもうすぐ80歳になるのですが、あなたがお撮りになった写真を財布のなかに大切にしまっておりまして…」その看護婦の説明によると、「人」として認められたことが彼にとって強烈な記憶となったというのです。それを聞いて、私は誰かの写真を撮るときにフォトグラファーには責任があるのだということを改めて思い起こしました。優れた写真家は皆同じように考えると思います。被写体には、常に敬意を払い、責任を持つ必要があるのです。
写真家であること
今までに撮った写真の総数は1000万枚くらいになるでしょうか。そのなかで本当に満足のいく写真は10枚に満たないでしょう。それ以外の写真は、取っておく価値がないか、カメラアングルやシャッターチャンスが少し違えば、もっと良い写真になっていたはずです。世間から最高の評価を受けた写真も、もっと良くなりえたと思います。できれば、すべての写真を撮り直したいと思います。
必要以上に自分に厳しくしたいとか、ひどい写真ばかりを撮ってきたと考えている訳でもありません。自分の写真を検討し、より良い写真にする方法を考えるのが本当に楽しいし、成長し続けたいのです。勿論、自分自身を正確に批評することが写真家にとって最も難しい作業のひとつだということも理解しています。自分に厳しくしすぎると、成長できなくなります。一方、自分に甘くなると、努力して行けるところまで行こうという強さが消えてしまいます。成長するには、忍耐強く批評を受け入れることが必要です。
写真は、どの一枚も個人的なものです。それは私自身であり、私にとって何が大切かを示すものです。お金の為や、求めに応じるためだけに写真を撮るのなら、上達はありえません。一枚の写真を感じ、血肉化し、呼吸するのでなければ、最高のレベルには到達しません。たまに仕事で良い写真が撮れるかも知れません。しかし、しっかりしたキャリアを築き、写真で人生を送ることを望むのなら、写真を自分の存在の一部とせざるを得ません。こう言うと単純すぎるように聞こえるかも知れませんが、私は愛を感じるので、写真を撮るのです。フォトグラファーとして、フォトジャーナリストとして成功するために一番大切なことは、毎日を愛することができる能力を持つことではないでしょうか。それができれば、優れたフォトグラファーでいることができるのです。写真を撮るのは私にとって喜び以外の何物でもありません。依頼の電話があるか、仕事を貰えるかなど心配はしません。注文がなくても、私は写真を撮り、他の人達と分かち合いたいと思います。
新しい時代とその可能性
古くからの有名な雑誌などが廃刊になり、フォトジャーナリズムは死に逝く職業だと言う人もいます。新聞社のスタッフは減り、情報の見せ方も変わりつつある。しかし実際には、かつてないほど驚くべき量の優れた仕事が日々なされています。今こそが黄金時代であり、求めれば叶えられる時代なのです。私は必ずしもフォトジャーナリズムそのものが変質しているとは思いません。ただ、映像の撮り方と配信の方法が変わったのです。以前は不可能だったことも今は可能になりました。フォトジャーナリズムの歴史のなかで、始めから終わりまでそのすべてのプロセスに関わり、さらにウェブに掲載できることなどなかったのです。この好機を見逃すなら、それは誰の責任でもない、その人の責任です。情報を記録し、広める方法は変わっても、映像そのものは変わりません。
私達が今使っているマルチメディア用撮影機材は、従来のビデオ機材にない速度と汎用性を与えてくれます。それでも、今でもコミュニケーションで最も重要で強力な手段は写真です。ビデオでも、オーディオでもなく、写真が最も強いのです。静止画のなかで時間は止まり、そのなかで私達は写真家の考えをゆっくりと辿ることができます。それは翻訳を必要としない国境を越えた言語です。ひとつ例を挙げましょう。ベトナム戦争で囚人を処刑する将校の写真を撮ったエディー・アダムズがいますが、誰もがあの映像を思い浮かべることができると思います。あまり知られていませんが、同じ出来事を撮影していたテレビクルーがいました。その場面の動画を心に思い浮かべることの出来る人はほとんどいないでしょう。思い浮かべるのは、エディーの写真なのです。今の機材を使えば、強力な写真にビデオとオーディオを組み合わせ、その力をさらに強くすることができます。オーディオとビデオと静止画を組み合わせることで、かつて想像しなかったような多くの情報をより大きなインパクトで伝えることができます。読者と視聴者に伝えられる物は多ければ多い方が良い。何かを言わずに済ますのは好きではありません。
数年前、ニコンで働く友人が一台の新しいカメラを渡し、「これはあなたの役に立つよ」と言いました。その頃私はいくつかのマルチメディア作品を手掛けており、静止画と外部オーディオ録音機と従来の動画機材を組み合わせて使っていました。「このカメラで仕事の仕方が変わるよ。仕事に必要な機材の量も変わる。ビデオ専用の機材を持ち込む時代は終わるよ」と、その友人は言うのです。彼が見せてくれたカメラはD90、私はすぐに気に入りました。そのカメラは静止画と動画の間を自由に行ったり来たりできるのです。ビデオ機材を2ケースも3ケースも運ぶ代わりに、別のカメラボディーとレンズをもっていくことができるようになりました。運ぶケースの数は変わりませんが、マルチメディア作品に役立つより幅広い機材を使うことができるようになったのです。もうひとつの大きな変化は、専用のビデオカメラと専用の静止画カメラを使い分けなくて良くなったということです。D90はその両方を担います。私にとって完璧なタイミングでの登場でした。マルチメディアを頻繁に手掛けるようになり始めていた頃で、静止画とオーディオとビデオを組み合わせて、それぞれの部分の集合以上に大きなインパクトをもつ作品に仕上げることに情熱を感じ始めていたのでした。
現在、写真家でいることは非常にエキサイティングなことだと思います。今までにないほど、撮影と展示の可能性があるのです。情報の配信の仕方は急速に変化しています。それを受け入れ、対応していくか、さもなければ、怖がって尻込みするしかありません。今起きていることは、刺激に満ち、求められるものも多く、私も沢山学ぶことがあります。もし私に優れたところがあるとするなら、教育を心から楽しむことです。毎日最低でも1時間は勉強に時間を使います。新しい可能性を学ぶ為に、ブログや雑誌や書籍などを読み前に進む方法を探ります。労働だとは感じません。純粋な喜びです。
今ほど、誠実で、真摯で、努力を惜しまぬストーリーテラーが求められている時代はありません。現在のマルチメディア機材を使えば、より多くの情報を、より速く、より広く伝えることができます。読者や視聴者も変化しています。彼らは教育のある、成長する視聴者で、より多くの情報に飢えています。彼らの求めに応える為に、マルチメディアは優れた方法だと言えます。
強力な道具と情熱的な人々
私はレンズを売り払うことをしないので、もっているすべてのニッコールレンズを使うことができるということも非常に大切です。ニッコールレンズは120本以上もっており、多いと思われるかもしれませんが、1年に3、4本買い求めていった結果そうなったというだけのことです。これらのレンズは私の眼と同じです。私の考えを、レンズを通して翻訳することができなければ、私の見ているものを人に伝えることができません。感じ、理解し、言葉で説明することはできても、優れたレンズがなければ、他の人のために正確に再現することができません。レンズ1本1本にはそれぞれ個性があり、反応も異なります。レンズは1本1本が違った仕事をします。手放したくなる訳がありません。私の語彙を手放すことになるのですから。ニッコールとニコンFマウントは、その意味で特別な存在です。同じフォーマットにニコンが固執してくれているお陰で、私は何十年も使っているレンズを今も使うことができます。ニコンにとっては難しい道のりだったに違いありません。フォーマットを別のものに変えるという選択肢もあったはずです。しかし、もしそうしてしまったら、長年作ってきたレンズに背を向けることになり、フォトグラファーである私を見捨てることになるのです。例えば、私はプロになったときに求めた50ミリのf1.2というレンズをいまだにもっていますが、そのレンズが製造されたのは私が5歳のときです。そのレンズを使って、ついこの間D4で撮影しました。素晴らしいことだと思いませんか?私は芸術家ですが、同時にビジネスマンでもあります。私はこの2つの側面を上手く調和させ、創造的にも経済的にも成功したいのです。ニコンで撮影することで、私は何より大切な2つの価値を手に入れることができます。それは、強靭さと信頼性です。
NPSが特別なのは、彼らスタッフの一人一人がフォトグラファーであるということです。写真を愛しており、写真家を愛しています。問題があるときにNPSに連絡を取ると、私は回答を得ることができます。経験に基づいた具体的な回答です。私がフォトグラファーとして成功したから、こういうサービスが受けられるようになったのではありません。大学生の頃ニコンを買ってから今日に至るまで、NPSの協力と説明と品質管理をたよりにしています。いつもNPSは私のために存在していてくれました。NPSのプロ意識と写真への情熱は変わることがありません。彼らはニコンのブランドそのものです。強靭で、信頼性が有りで、一貫しているのです。
プロフィール
写真家・映像監督として数々の受賞歴をもつビル・フレイクスは、これまでにアメリカ合衆国の50州全てと125を超える国々で新聞・雑誌、そしてアップル、ナイキ、コカコーラ、リーボックなどの広告の撮影を手掛けてきた。スポーツイラストレイテッド誌のスタッフフォトグラファーであるフレイクスの作品は世界各国で出版されるあらゆる総合誌の紙面を飾ってきた。また彼の静止画作品と短編ドキュメンタリー動画作品は何百ものウェブサイトや主要テレビネットワークで放映されている。フロリダ州立大学、マイアミ大学、カンザス州立大学で客員教授及び講師として教鞭を執る。ここ5年間でマルチメディアとフォトジャーナリズムについて講義を行った大学は100を超える。