伝説のレンズ
Nikkor P・C 8.5cm F2
今夜は、第三十四夜に引き続き、レンジファインダーカメラ用ニッコールレンズのお話をしよう。
ニッコールレンズが世界的に認知されるきっかけをつくった伝説のレンズ、Nikkor P・C 8.5cm F2である。
大下孝一
このレンズを有名にした出来事は、LIFE誌の専属カメラマン、デビッド・ダグラス・ダンカン氏との出会いだろう。よくご存知の方もいらっしゃるとは思うが、しばらく昔話におつきあいいただきたい。
1950年のことである。同じくLIFE誌のカメラマンであった三木淳(みきじゅん)氏が、たまたま遊びに来ていた友人の写真家の持っていたNikkor 8.5cmを借りてダンカン氏のスナップを撮っていた。その場では「へぇ日本製のゾナーかい」とあまり興味を示さなかったダンカン氏であったが、後日その写真を引き伸ばして見せたところ、氏の表情が急に変わり、ルーペを持ち出してその写真をチェックしはじめた。「すごい!シャープだ。この会社にすぐ行こう!」
こうして、ダンカン、FORTUNE誌のカメラマンのブリストル、三木淳の3氏は日本光学工業の大井工場(現ニコン大井製作所)を訪問することになる。そこで、当時社長であった長岡正男は3人をレンズの検査室に案内し、投影検査機でダンカン氏、ブリストル氏の手持ちのレンズとニッコールレンズの性能比較を見せたという。ニッコールレンズの優秀さをまのあたりにした2人は、すぐさまライカ用のニッコールレンズを買い求めた。そしてダンカン氏はこのレンズを携えて朝鮮戦争の前線に赴き、ニッコールレンズで撮影したすばらしい写真を続々とLIFE誌に掲載してゆく。これが、ニッコールレンズの名前が世界に知れ渡るきっかけとなったのである。
ところで皆さんは、上の話で出てきた「投影検査」というものをご存知だろうか?投影検査機のしくみを図解すると図1のようになる。ランプで照明されたチャートを被検レンズを使って壁面などに投影して、その像のくずれ方で良否を判定する検査方法である。いってみればスライドプロジェクターを精密にしたようなものを想像していただきたい。
写真レンズで一番確実な検査方法は、もちろん「実写」による検査である。しかし実写には、撮影、現像、プリントという工程が必要で、どうしても判定に時間や工数がかかってしまう。また、被写体、照明条件、フィルム、現像条件などさまざまな要素がからむため、比較判定が難しいという問題点がある。
光学検査法としてもう一つ、コリメーターによって作られた人工星像を被検レンズで結像させ、これを顕微鏡で拡大観察する「ポイント像検査法」というものがある。この方法は画面中心の検査には大変有効であるが、画面周辺の検査には、コリメーターやレンズを精密に旋回させるオプチカルベンチという大掛かりな装置が必要な上、その操作や結果の分析には熟練と技と時間が不可欠であった。それに引き換えこの投影検査は、画面全体の性能が瞬時にわかる上、チャート像の解像や、像のくずれ方を見るだけなので判定も容易である。
当時の日本光学(現ニコン)は、写真レンズを製造するにあたって、さまざまな検査方法を試し、この投影検査法にゆきついたという。この発案者、発明者は誰であったのか?戦前技術指導に来ていたドイツ人技師ともいわれているが、今となってはよくわからない。ともかくこの投影検査法は、写真レンズの検査法として爆発的に普及し、レンズ性能向上の大きな力となった。そして今もなお、内外の光学メーカーで写真レンズ検査法のスタンダードとして使われているのである。
ダンカン氏がレンズの検査室でニッコールレンズの優秀さをすなおに実感できたのも、そしてニッコールレンズが設計どおりの性能を発揮できるのも、この投影検査装置のおかげだったのだ。
話を8.5cmに戻そう。
このレンズは、図2に示すように、3群5枚構成の典型的なテレゾナータイプである。第三十四夜に登場した5cm F2と比較して、最終レンズの接合レンズが単レンズに置き換わった構成となっている。この接合レンズは、画角が広いときに像面の平坦性をよくするために有効で、画角の狭い8.5cmでは1枚少ない5枚で構成されているのである。前群の構成は5cm F2と同様に、1枚の凸レンズと3枚の接合レンズでつくられている。空気との境界面の少ないゾナータイプの構成は、ゴーストが少なく、逆光でもコントラストの高い画像を得ることができる。
また、ゾナータイプは第三十二夜で触れたように、明るいレンズに適した構成で、全画面にわたって球面収差、コマ収差に優れており、この8.5cm F2もこれらの収差が良好に補正されているため、絞り開放からコントラストの高い優れた画質が得られるだろう。このレンズは第三十四夜で触れたように、村上三郎さんが戦後新設計したレンズの一つである。設計着手がいつごろであったのかはっきりしないが、発売が1948年であるから、戦後8.5cmの開発が決まってすぐ設計を始めたと思われる。実は8.5cm(中望遠レンズ)開発は、他の5本のレンズとともに戦後すぐに計画されたものであるが、当初はF値の大きい小型の中望遠レンズとして開発がスタートして、その後F2の明るさに計画変更されている。おそらく営業的に、一番明るいレンズを発売したいという要望が強かったためだろう。その後日本光学は5cm F1.4、8.5cm F1.5など明るいレンズを次々発売してゆくが、8.5cm F2は、こうしたニッコール大口径化の先鞭をつけたレンズといえるかもしれない。
レンズ企画の変更、第三十四夜でお話した5cm F2の設計変更といった設計中の困難がありながら、わずか2年あまりの短期間で発売にこぎつけた設計の早さには驚かされる。対数表と手回し計算機やそろばんでレンズ設計をしていた時代、村上さんの、写真レンズにかける情熱には敬服するばかりである。
最後にこのレンズの描写をみてゆこう。
レンズの構成でお話したように、8.5cm F2は、開放からコマフレアが少なくコントラストの高い写りである。作例1は絞り開放での夜景写真であるが、すっきりとしたコントラストの高い画像であることがおわかりいただけるだろう。仔細にみると開放ではわずかに色収差やコマ収差によるフレアがハイライト部にみられ、ややコントラストが低下しているが、このフレアもF2.8、F4と絞り込むことで減ってゆき、F4からF5.6で最高の性能になる。
また、開放撮影では周辺光量の低下が大きい。うまく使うことでドラマチックな効果が得られるが、均質な描写を得たい撮影では絞って使うことをお勧めする。周辺光量の低下も、フレアと同じく、F4まで絞り込めばほぼ均質な描写となる。
作例2はF5.6絞りで撮影したSLの写真である。解像・コントラストの高いこのレンズは、質感の表現、特に金属のような硬質の質感描写にすぐれている。さらに、この8.5cm F2は非対称性の強いゾナータイプでありながら、歪曲収差がほぼ完璧に補正されているため、鉄道写真、都市の景観など硬質で直線物の多い被写体にはうってつけのレンズといえるだろう。
作例3は、あじさいの写真である。雨で光量が少なかったせいもあるが、植物のやわらかさと湿り気を出すため絞り開放で撮影している。このシーンでは背景が沈んでいるため目立たないが、絞り開放での背景のぼけは良くはない。
最新設計のレンズと比べると、球面収差が大きく、また周辺のボケがラグビーボール状に歪んでいるためである。この背景ボケの硬さもF4くらいまで絞ると解消され、円形絞りによるきれいなボケが得られるだろう。
大井工場にまで足を運び、ニッコールレンズの性能を確かめたダンカン氏が、すぐさま買い求めたレンズは実は8.5cm F2ではない。5cm F1.5と13.5cmであった。一目見て写りに惚れ込んだこのレンズを購入しなかったのは不思議な感じがするが、8.5cmより、13.5cmの方が自分の仕事に向いているという、写真家としての判断だったといわれている。いずれにせよ、ダンカン氏が8.5cmを買わなかったことで、このレンズの評価がゆらぐわけではないだろう。1枚の写真の描写で人の心を動かした。そんな逸話のあるレンズはそうあるものではない。そんな、使う人に驚きと感動を与える製品を、これからも作り続けてゆきたいものである。