2018年1月24日(水) 〜 2018年1月30日(火) 日曜休館
2018年2月22日(木) 〜 2018年2月28日(水) 日曜休館
他者の人生にカメラを向けることで、「生きること」に近づけるのではないかと思ったのは、25歳の頃だった。
もう20年も前のことで、記憶が少し曖昧ではあるが、そんな青臭いことを考えていた時分に出会ったのが北海道に暮らす井上弁造さんだった。当時、78歳だった弁造さんは、がむしゃらに経済発展をし続ける戦後の日本社会に疑問符を投げかけるかたちで、自給自足の生活を営んでいた。「今の経済社会が行き詰まったときに、立ち帰れる場所としての自給自足生活のモデル」というのが、弁造さんが「庭」と呼ぶ、森であり畑だった。
そして、そうした社会的なメッセージを投げかける姿勢とは全く無縁なものとして、絵を描いていた。絵は、そのほとんどが女性で裸婦や母と娘の肖像で、ずっと独身で生きてきた弁造さんの世界からは遠いものばかりだった。
僕は何かに導かれるように、弁造さん、庭、絵という三つを見つめることになった。
2012年4月に92歳で弁造さんは逝くことになるが、撮影が終わることはなかった。弁造さんがいなくなってしまうと、庭は少しづつ変化し、遺品の中からはたくさんのエスキース(下絵)が現れた。僕は、次第に庭とエスキースから弁造さんの「生きること」を考えるようになった。
一家族が衣食住を自給自足し、永続的に暮らせるような工夫を緻密に盛り込んだ庭は弁造さんの未来へのメッセージそのものだった。しかし、そんな庭も主人がいなくなることで自然に還っていこうとしていた。そして、そうした庭の姿が投げかけてきたのが、人間が切望してきた “伝えること”あるいは“伝えたいという思い”の本質的な意味や難しさだった。言い換えるとそれは、個の存在が社会や未来にどう関わっていくか、ということでもあるように思えた。
遺品のエスキースもほとんどが女性を描いたものだった。幾重にも重ねられた線から生まれる無数の女性たち。それを繰り返し撮影しているうちに、弁造さんが描こうとしたのは、自らのリビドーだったのではないかと思うようになった。
もし、そうだとしたら、弁造さんにとっての「庭」とは社会や他者との関わりをつくっていこうとする窓であり、「絵」は自らの胸の底を覗き込む窓だったのではなかろうか。
弁造さんが逝き、早くも5年が過ぎたが、その間撮ってきた、あるいは生前に撮ってきた庭とエスキースの写真たちは、不思議な力で僕に語りかけてくる。それは、弁造さんにカメラを向けることで得たものとは違った角度から、「生きること」の質感と温度を伝えてくるようだ。
この感覚に包まれるたび、写真を撮ることで他者の「生きること」に近づけるのではないかという20年前の思いに至り、僕たちはまだまだ「生きること」を理解することができると強く感じる。
1972年大阪生まれ。
出版社勤務の後、東京から岩手に移住。以後、写真家として活動を開始。
東北の現在をテーマにした作品のほか、人間を見つめるドキュメンタリー作品を制作している。
受賞歴
2006年「フォトドキュメンタリーNIPPON 2006」
2015年「第40回伊奈信男賞」
個展
2015年「あたらしい糸に」銀座・大阪ニコンサロン
2012年「彼の生活 Country Songsより」 銀座・大阪ニコンサロン
2010年「Drawing 明日をつくる人 vol.2」トーテムポールフォトギャラリー
2008年「明日をつくる人」新宿ニコンサロン
2006年「Country songs ここで生きている」ガーディアンガーデン
グループ展
2016年「あたらしい糸に」大邱フォトビエンナーレ2016
2009年「今、そこにある旅(東京写真月間)」コニカミノルタフォトギャラリー